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帰る山何ぞはありてある甲斐は
来ても留らぬ名にこそありけれ |
| 凡河内躬恒 |
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越かねて今ぞ越路にかへる山
雪ふる時の名にこそありけれ |
| 源頼政 |
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美しくも望郷の気持ちを誘う名の帰山。
今庄から敦賀に通じるその周辺を帰山と呼んだ。”帰山“まさに望郷の気持ちを表現したような、せつない名前。そのためか詠まれる歌も、悲しいものが多いように思える。
「”帰る“という名のかえる山とは一体何なのだろう。そこにあってもその存在する意味は都に来ても留まらないで
”帰る“という、そんな名なのだろうか」。凡河内躬恒は帰山に追い立てられるように去り、「雪深い帰山を越えられずに、来た道を引き返す。帰山とは雪が降る時に由来する名なのだな」と、源頼政は帰山の雪に立ちふさがれて帰った。確かにここは山深く冬は雪も多い。美しい日本海を眺めても、この先の厳しさを思うと、名前のように帰りたくなるのだろうか。
ちなみに今庄には鹿蒜という名があり、帰ると鹿蒜をかけていた。また頼政の歌の越路は、来し路をかけている。厳しく険しい帰山を目指して歩き、それぞれの気持ちを歌に詠んだけれど、果
たして彼らの目には、どんな帰山の景色が見えていたのだろうか。
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凡河内躬恒 (生没年不詳)
紀貫之と並称される歌人で、『古今和歌集』の選者であり、36歌仙としても活躍した。寛平6年(894)に甲斐少目(かいしょうさかん)に任ぜられ、その後、和泉権掾(いずみごんのじょう)、淡路権掾などを歴任する。歌数は紀貫之、忠岑、友則ら古今集撰者より少なかったが、歌の実力は認められていた。機知に富んだ歌や即興歌にも優れ、家集の『躬恒集』では歌合の歌の他、屏風歌も多く残されている。
源 頼政 (一一○四〜一一八○) 白河院判官代・兵庫頭・右京権大夫を歴任。保元の乱では後白河天皇方に、平治の乱では平家方に従った。その後、治承2年(1178)に平清盛より従三位に叙されるが、翌年には病により出家。治承4年には平家に対する謀反を企て宇治川で対戦したが、敗れて自害した。多数の歌合、定数歌の作者で『歌仙落書』『治承36人歌合』に選ばれた歌仙でもあった。家集『源三位頼政集』が残されている。
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平安期以降の歌枕としてよく登場する帰山。敦賀湾東岸と越前国府を結ぶ道筋にあり、帰村(南越前町南今庄)付近の山を指すといわれている。(南越前町南今庄) |

帰山観音 江良の帰山には霊水が湧き出ているところもある。休日には多くの人が水を持ち帰る姿が目立つ。“帰山観音”として県内外の人に知られている。(敦賀市江良) |
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