 | 可敝流廻の道行かむ日は五幡の 坂に袖振れわれをし思はば | | 大伴家持 | |  |  |  | 人恋しい孤独な生活の中で優れた歌を詠む。 敦賀市東浦に位置する五幡は山と海に囲まれ、越前と都を結ぶ街道沿いにあった地区。「あなたが可敝流あたりの道を通 って都へ帰る日には、五幡の坂で袖を振ってください。北陸のような田舎に残される私を思ってくださるならば……」。大伴家持が赴任していた越中国からは、決して見えることはないけれど、淋しさのあまり今頃五幡の坂を歩いていると考えられる都の使者を思って詠んだ歌といわれている。 役人として地方赴任の多かった家持にとって、本当の友人といえる人はいたのだろうか。また都からの使者との交流は深かったのだろうか。孤独に耐えながらも自らの任務に没頭し、地方での生活に慣れようと努力した日々は、彼の歌への感性をより繊細なものにした。だから万葉集をはじめ、様々な歌集に彼の優しく繊細な表現の歌が数多く残されているのだ。 見えるはずのない人と五幡の坂を想い、歌を詠んだ家持。彼の心の中は、五幡の景色の美しさよりも、都への思いの方が大きく深く、美しかったに違いない。 |  大伴家持 (?〜七八五) 『万葉集』編纂の中心人物で、自身の長歌46首、短歌431首もの歌が含まれている。また36歌仙でもある。父である大伴旅人や周辺に住んでいた山上憶良や小野老らの影響で文学に親しむようになった。その後、青年時代には多く相聞歌を詠んでいる。越中守や因幡守を歴任、中納言従三位まで進んだ。また彼の思想や発想には漢文学の影響も見られ歌にも反映されている。この他に後瀬山の歌もある。
| |   日本海と山間部で囲まれた五幡地区。その名の由来は、蒙古襲来の時、山頂に五本の旗を数日間掲げていたところにあるとか。夏の海辺は大勢の海水浴客で賑っている。(敦賀市五幡) |  田結周辺 当時の北陸道は田結(たい)から五幡を経て、今庄の鹿蒜村に通じていた。また可敝流は帰りとも呼ばれ、付近の帰山からその名がついたと思われる。(敦賀市田結) | | |