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よもすがらたたく船ばた吉崎の
鹿島つづきの山ぞ恋しき |
| 蓮如 |
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この海や沖つ白波浦遠く
みちて梢をしおこしの松 |
| 宗祇 |
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歌と人、そして吉崎から生きる強さを得る。
吉崎は蓮如の北陸布教の拠点として全国でも有名なところで、蓮如の時代にはかなり賑わいがあったという。「夜通
し船をこいで吉崎を離れることになる。鹿島の森が見られなくなるのは悲しいことだ」。4年におよぶ滞在で民衆との信頼関係を築き、布教活動を盛んにした一方で、他教団からの弾圧を受け、吉崎を離れざる得なかった蓮如。ここは彼の人生が凝縮された土地ともいえるのだ。
一方、吉崎近くの汐越で旅のひと時を過ごしたのは宗祇だ。吉崎ほどの賑わいはないが、浜の静けさと老松から漂う郷愁が、彼の心を離さなかった。「遠く沖の白波には、汐越の松の梢も埋もれているのだろう。そしていつか、この老松も波に流されてしまうのか」と、詠む彼は旅の途中で何を思ったのだろうか。
近い年代に生き、よく似た土地を訪れた二人。共に寂しげな歌だが、それぞれに生きる強さを秘めている。布教で庶民とのふれあいを生きる力にした蓮如。そして連歌などの文化の普及に貢献した宗祇。その場にいた状況は全く異なったとしても、吉崎から学び得たものが大きかったことは確かなようだ。
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蓮如 (一四一五〜一四九九)
本願寺第七世存如の子。長禄元年(1457)、父の死により本願寺第八代法主に。御文による布教活動で本願寺の再興に尽力。中でも吉崎での活動は充実していたといわれている。それは文明6年(1474)の本堂焼失により吉崎を離れてもなお、その教えが現代に語り継がれていることからもよくわかる。また越前守護の朝倉孝景との交流もあり、保護も受けていたともいわれている。
宗祇 (一四二一〜一五〇二) 歌人、連歌師、古典学者としてその地位を確立。号は自然斎・種玉庵、修行時代は1450年頃(30歳頃)で、それまでの一時期に京都五山の一つ、相国寺で修行をしていたとも伝えられる。連歌指導や古典講釈のため全国の武士を歴訪、中央と地方の文化伝播に貢献した。越前には親交のあった一乗谷の朝倉氏を訪ねている。『新撰菟玖波集』撰進の他、歌集『宗祇法師集』や句集、連歌学書がある。
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石川県との県境にある吉崎。毎年4月23日からは蓮如忌が行われる。蓮如像(高村光雲作)の建つ御山からは美しく青い日本海と緑豊かな鹿島の森が見渡せる。(あわら市吉崎) |
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