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あなかしこ聖聚のごとくもろもろの
木の紅葉する毫摂寺かな |
| 与謝野晶子 |
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味真野のみ寺のもみぢこれもまた
人を摂めて光にぞ置く |
| 与謝野鉄幹 |
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人生を振返るに相応しい、静寂に包まれた寺。
歌人与謝野鉄幹と晶子夫妻が毫摂寺を訪れたのは、晩年の昭和8年11月のこと。静寂に包まれた境内で二人は、様ざまな思いを胸に歌を詠んだ。「ここの紅葉はまるで仏様のようで、私達を静かに見守ってくれているのでしょうか。おそれおおいことです(晶子)」「味真野のこの寺も紅葉も仏様のように、自然に人が集まってくる力があり、光ある方へ導いてくれる……(鉄幹)」。
歌人として、また歌壇や文学界において多くの名声を得た二人だが、それまでの道のりは険しく厳しかった。だが、歌が二人を支え、互いが支え合っていたことを毫摂寺を訪れた晩年になって実感し、懐かしくさえ感じたのだろう。それ程にこの寺は、達観した気持ちになれる空間なのだ。
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与謝野晶子 (一八七八〜一九四二)
大阪生まれ。少女期から文学に親しむ。文学誌に発表した詩歌が与謝野鉄幹の目に留まり、それ以後『明星』に短歌を掲載し、山川登美子との交流も深めていく。明治34年には代表作『みだれ髪』を発表、同年に与謝野鉄幹と結婚、東京新詩社を支えた。その後の活躍も目覚ましく、大正10年には自由主義的芸術教育を標榜し、文化学院の創立に参画。歌集の他、源氏物語などの古典研究や小説などもある。
与謝野鉄幹 (一八七三〜一九三五) 京都生まれ。本名は寛。少年期に京都、鹿児島を転々とする。明治22年(1889)に徳山女学校で教鞭をとり、同25年に上京、落合直文に師事。27年『亡国の音』を発表し、和歌革新を提唱。32年に東京新詩社を興し翌年『明星』を創刊、明治浪漫主義の素地を築く。34年には鳳晶子と結婚。その後、『明星』を終刊させた。44年には渡欧、晶子との共著『巴里より』を出版。晩年まで作歌活動に励んだ。
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越前四箇本山のひとつ、浄土真宗出雲路派の本山で、境内全体に荘重な雰囲気が漂う。山門や御影堂、阿弥陀堂、経堂の他に、鐘楼も見応えがある。周辺は遊歩道にもなっており、万葉集の悲歌で有名な越前の里味真野苑も近い。(越前市清水頭町) |
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