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生家跡(福井市)
   
はふ児にて
わかれまつりし身のうさは
面だに母を知らぬなりけり

別れても、心の支えは父と母と生家の姿。

 当時の北陸道を語る上で重要な拠点ともなる九十九橋。その橋の南側に曙覧の生家があった。正玄家長男として可愛がられたが、2歳時には母と、15歳では父と死別 する。幼くして辛い思いを強いられた曙覧にとって、生家での楽しい思い出はあまりなかったのかもしれない。「這う年頃に別 れた母。だから顔も愛されたことも覚えていない。悲しいことだ」。この歌を詠んだ時の曙覧はすでに40歳、母の37回忌だったが、歌の背景にはやはり九十九橋近くの生家も詠まれているのだろう。
 家業の忙しさも手伝って、早くに母の実家(武生)に預けられるが、時どき福井に戻って来ては、父母のいない寂しさや悲しみを噛みしめた曙覧。でも場所柄、人々の往来が賑やかで、気が紛れることもあったかもしれない。そんな曙覧の感情は、人々の往来のように複雑で、止むことはなかったのだろう。


人物紹介
橘 曙覧 (一八一二〜一八六八)
 福井生まれ。橘諸兄を祖先とする正玄家の長男。通称を五三郎、名は尚事、後に曙覧と改名。若くして父母と死別。21歳で結婚、家督を弟に譲り、黄金舎で貧しく暮らす。国学を学び、飛騨の田中大秀に入門。作歌活動も盛んになる。嘉永元年(1848)に藁屋に転居、その後春嶽が志濃夫廼舎の舎号を与える。「志濃夫廼舎歌集」があり、正岡子規の「歌よみに与ふる書」によって絶賛され、注目された。

名所を巡る

「髪しろくなりても親のある人もおほかるものをわれは親なし」の悲しい歌もある。生家跡碑は九十九橋南詰めにある。(福井市つくも1、2丁目)