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袖干の井(福井市)
   
濡らしこし
妹が袖干の井の水の
湧き出るばかりうれしかりける

たのしみは
湯わかしわかし埋み火を
中にさし置きて人とかたるとき

たのしみは
まれに魚烹て児等皆が
うましうましといひて食ふ時

新環境を求め、歌や生活にも刺激を与える。

 足羽山での貧しい生活(黄金舎)を見るにみかねて、曙覧の友人や門人達が建てた藁屋(福井市照手)。ここでは井戸のなかった黄金舎での妻直子の苦労が、井戸を掘り当てることによって、ようやく解放されることになった。「水汲みの苦労の涙で濡れた袖も、この井戸から湧き出る水のお陰でやっと乾く。嬉しいことだ」と喜んだ。
 その藁屋の周辺は当時、家はほとんどなく、田畑や雑木林ばかりの、いわゆる辺鄙なところだったとか。しかしそんな誰も手つかずの場所だったからこそ、曙覧も気に入り、苦労して井戸も掘ったのだろう。そして晩年まで歌と共に暮らしたのだろう。
 足羽山(黄金舎)の時とは、また違った自然の中での暮らしが始まった。金銭的に貧しいのは変わらないが、山から見える風景から、自らの目線がとらえる風景や現実がそこにはあり、その現実が、素直な気持ちを歌った”独楽吟“を生み出した。「楽しみなのは湯を何度も沸かしても、まだ沸かせることのできる埋火をそのままにして、人と語りあう時である」や「楽しみはたまに魚を煮て、子供達みんながうまい、うまいと言って食べる時である」など、現代の生活にも通 じるような光景や感情が見えてくる。
 現在、ここは住宅地となって美しい景観は望めないが、それでも”現実“を観察して歌った曙覧の気持ちになって周囲を見渡してみれば、何かしら自分だけの新しい発見があるかもしれない。


人物紹介
橘 曙覧 (一八一二〜一八六八)
 福井生まれ。橘諸兄を祖先とする正玄家の長男。通称を五三郎、名は尚事、後に曙覧と改名。若くして父母と死別。21歳で結婚、家督を弟に譲り、黄金舎で貧しく暮らす。国学を学び、飛騨の田中大秀に入門。作歌活動も盛んになる。嘉永元年(1848)に藁屋に転居、その後春嶽が志濃夫廼舎の舎号を与える。「志濃夫廼舎歌集」があり、正岡子規の「歌よみに与ふる書」によって絶賛され、注目された。

名所を巡る

黄金舎での「汐ならで朝なゆふなに汲む水も辛き世なりと濡らす袖かな」の歌を受けて、袖干の井の歌ができた。(福井市照手2丁目)

藁屋跡
嘉永元年(1848)、曙覧が37歳の頃に藁屋に移った。だが、その後火災にあい、建て直している。さらに元治2年(1865)には、歌で交流のあった松平春嶽が訪れ、志濃夫廼舎(しのぶのや)と呼ぶようになった。(福井市照手2丁目)

妙観寺
曙覧の実家である正玄家代々の菩提寺。曙覧は父母の法事をここで行っている。(福井市足羽1丁目)