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いつ来ても
世ばなれはてし此の寺は
門入るからにここち異にする |
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大安寺の相反する雰囲気に人生を投影する。
多くの門人や友人達の支えもあり、晩年には金銭的に安定した橘家。曙覧は相変わらず歌や学問にのめり込んでいたが、体調はあまり優れなかったようだ。そんな中、よく訪れたのが大安寺である。この寺からは広大な福井平野と悠々たる流れの九頭竜川が一望でき、初夏には美しい菖蒲の花が咲き乱れる。そんな風景が、老いた曙覧の心を慰めていたのだろうか。そして結局はここが気に入り、墓を置くことを決めるのだ。
「大安寺の門をくぐると、いつも心が洗われるような、清々しい心地になる」。独楽吟では素直な今の気持ちを歌い、友人には洒落や知識を生かした歌を送り、福井の自然も見事に表現した。この歌もまた禅寺の持つ厳しく洗浄な雰囲気に身がひきしまるというような率直な心を歌っている。
禅寺特有の襟を正すような緊張感があり、反面、心が和む風景もある大安寺。そんな相反する雰囲気は、まるで貧しい生活を過ごしながらも、愛する歌と国学に一生を捧げた自分の人生と似ていると思ったのかもしれない。
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橘 曙覧 (一八一二〜一八六八)
福井生まれ。橘諸兄を祖先とする正玄家の長男。通称を五三郎、名は尚事、後に曙覧と改名。若くして父母と死別。21歳で結婚、家督を弟に譲り、黄金舎で貧しく暮らす。国学を学び、飛騨の田中大秀に入門。作歌活動も盛んになる。嘉永元年(1848)に藁屋に転居、その後春嶽が志濃夫廼舎の舎号を与える。「志濃夫廼舎歌集」があり、正岡子規の「歌よみに与ふる書」によって絶賛され、注目された。
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大安禅寺ともいう。旧福井藩松平家の菩提寺で、福井名産の笏谷石を使った1360枚もの石畳、千畳敷を見ることができる。(福井市田ノ谷町) |
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