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北陸街道コース 一覧へ戻る戻る次へ

其の三 福井城下〜細呂木(2)
   


水陸の交通の要所であった舟橋宿と金津宿。

 福井城下を過ぎると街道は続いて舟橋、舟寄、長崎、金津と各宿場を北上していく。舟橋宿は北陸街道と九頭竜川が交差する場所に位 置し、川を渡るための舟橋が架かっていたことで知られている。現在は昭和時代に造られた九頭竜橋が架かっているが、橋の周辺には舟橋があったことを示す「四十八艘記念碑」や「舟橋史跡碑」などの石碑が立っており、橋のあったことを知ることができる。
 続いて舟寄宿と長崎宿だが、この両宿は共に兵庫川中流にあり、公用について補完し合うなど緊密な関係があった宿場だ。簡単にいうと江戸時代には使者の馬の乗り継ぎのため、各宿場に駅馬が置かれていて、長崎と舟寄両宿はその仕事を月の上、下の10日間を長崎宿、中の10日間を舟寄宿が分担していたということだ。残念ながらこのような当時の宿場町の面 影を残している場所はほとんどない。しかし、南北朝時代の武将である新田義貞の遺骸を埋葬したと伝えられる称念寺が長崎宿の近くにはあるし、舟寄手前の北横地には北陸街道と丸岡街道の追分(分岐点)を示す碑が残っている。
 続く金津宿だが、この宿場町は北陸街道と竹田川の交差する水陸の要所であり、中世以来物資の集散地となっていた重要な宿場であった。安永2年(1773)には旅籠屋60軒と揚屋20軒があり、遊女が61人いたとされ、また福井藩の奉行所も置かれるなど九頭竜川以北の宿場町で最大の賑わいを誇っていたといわれている。特に竹田川に架かる金津橋周辺は、禁令を伝える制札場があるなど宿場の中心となっていた。

細呂木は口留番所も置かれた越前最北の宿場町。

 最後に北陸街道は最北の宿場町である細呂木宿へとたどり着く。ここは17頭の駅馬を常置し、福井藩の口留番所(関所)も置かれるなど重要な宿場であった。特に口留番所は通 行人の吟味(女性は非常に厳しい)と物資の持ち出しの監視を行うなどとても重視されていた。
 当然本陣や脇本陣もあり、森家と飯塚家が務めていた。弘化3年(1846)にはその他の宿として御用宿10軒と薪代だけで泊める木銭宿5軒もあったことが分かっている。
 現在の細呂木は北陸街道の中でもかつての宿場町の面 影をかなり残している地域であり、散策に向いているといえるだろう。町並みや『のこぎり坂』などの史跡もかなり残っており、充分に宿場の風情を楽しめるはずだ。
 この細呂木宿を出ると、北陸街道は吉崎へ通じる吉崎道との追分を過ぎて加賀国境に向かう。越前国内に15の宿場町があり、同国を縦断するこの街道はこうして国外へと出て、次の宿場である加賀国の橘へ至るのだ。

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名所を巡る

千束一里塚
北陸街道に16ヶ所あったという一里塚の中で唯一原形のまま残っている。(あわら市花乃杜)

細呂木関所跡
越前国と加賀国の国境に設けられた関所跡。通 行人と物資の流通の監視を行っていた。(あわら市細呂木)

のこぎり坂
親鸞ゆかりの地。道が急峻で、ノコギリの歯のように屈曲していたことに名前が由来する。(あわら市細呂木)

金津大橋
橋の南詰めには制札場があるなど、この付近が宿場の中心であった。(あわら市市姫)

石団子の碑
親鸞の越後流罪の時の伝説が残る場所。親鸞が求めた団子を渡さなかったため団子が石になったという。(坂井市坂井町下関)

追分
北陸街道と丸岡街道の追分。左へ行けば北陸街道を長崎、舟寄方面 へ、右へ行けば丸岡街道を丸岡方面に向かうことになる。(坂井市丸岡町北横地)