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北前船は1航海で1000両という莫大な利益。
江戸時代の物流路といえば、街道を使う陸路、河川、湖を利用する水路、海を行く海路に大別
される。ここでは日本海を使った物流、特に北前船によって賑わった、三国と河野の2つの湊を紹介する。
まず北前船について説明すると、この名前は江戸時代後期から明治時代中期にかけて、蝦夷地(現北海道)と大坂(現大阪府)の間を日本海路で結んでいた買積船(請け負った荷物の輸送だけではなく、自費で買い取った品物も輸送していた船)の呼称だ。ベザイ船という大型の帆船を主に使い、蝦夷地で昆布やニシンといった海産物などを、大坂や瀬戸内海沿岸では酒や塩と木綿、煙草といった雑貨類などを積み込んで日本海を往復していた。一般
的に航海の準備は2月末から3月上旬に大坂で行われ、蝦夷地との間を往復して秋には戻ったといわれている。航海の途中には日本海沿岸の各地に寄港し、商品相場の違いを利用して盛んに積荷の売買を行った(具体的には高く売れる湊で品物を売り捌くといったもの)といい、1航海で1000両という莫大な利益があったと伝えられている。
ただし、航海はいい事ばかりではない。船が難破することも多く、海難により家運が傾くというような例は珍しくなかったといわれるほど危険も伴っていた。全国各地の寺社に船絵馬が多数奉納されているのは、海難から身を守りたいという船乗りたちの正直な気持ちの表れであり、それほど危険であったのである。航海はまさに”板子一枚下は地獄“であった。
三国に繁栄をもたらした北前船交易。
三国はこの北前船の北陸有数の寄港地として知られた湊である。『続日本紀』の宝亀9年(778)9月の条にその名が見えるなどその歴史は古く、中世には荘園物資の積み出し港として活動していた。これは三国が水運の利用できる九頭竜川水系の河口にあたり、水路を使って物資が集散するのに最適の地であるからで、その地理的条件が古くから三国を湊たらしめていたのだ。北前船交易の三国での隆盛はこのような三国の湊としての適性と、商品経済の発達、そして福井藩が唯一の外港として庇護に努めた結果
といえるだろう。
また、先述したように北前船交易は船主や船乗りに莫大な利益をもたらしたが、三国でも多数の豪商がその恩恵を受けている。その代表が森田家や内田家であり、交易で蓄えた富を背景に湊の自治や御用金の負担配分などで指導力を発揮していた。彼らは三国の文化向上に多大な貢献があったことでも知られ、工芸職人のパトロンとなったり、自ら俳諧をたしなんだり、三国祭で屋台づくりを行ったりしている。その効果
もあってか、北前船が活躍した時代には、三国焼や三国土人形、三国仏壇などで見事な工芸品が数多く生まれている。
三国湊の繁栄は明治30年(1897)頃の福井・小松間の鉄道敷設で、それまで河川を利用して集めていた物資が鉄道で運ばれることになると終わりを告げる。そしてその後、三国は商港から漁港へと転換していくことになる。
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三国神社
三国湊の豪商内田惣右衛門が改築した社殿が残る。毎年5月20日に催される、三国祭りは山車が町内を巡行するなど、昔日の湊町の繁栄を偲ばせてくれる。(坂井市三国町山王) |

韃靼漂流遭難者供養碑
明暦2年(1655)に海難で韃靼(朝鮮半島北部付近)に漂着し、殺害された人々の供養塔。性海寺墓地に建つ。この遭難事件は「韃靼漂流記」(だったんひょうりゅうき)として語り継がれている。(坂井市三国町南本町) |

思案橋
辰巳川にかかるこの橋は江戸時代、福井藩と丸岡藩領の境界にあり、出村遊郭への出入口でもあった。(坂井市三国町神明) |

内田本家跡
三国湊の要職を努め、歴代が廻船業を営んだ豪商の本家跡。(坂井市三国町南本) |

港会所跡
三国湊の人々が住民自治を実施した場所。(坂井市三国町南本) |

北前船主の館
右近家
(上)河野湊の豪商であった右近家の屋敷。(右)屋内には北前船交易の貴重な資料が展示されている。本宅上の山の中腹には西洋館が建つ。お問い合せ:北前船主の館
右近家(南越前町河野) |

河野村歴史文化
ふれあい会館
年月とともに進化する船の変遷の様子など湊町であった河野村の歴史がよく分かる。お問い合せ:河野村歴史文化ふれあい会館 0778・48・7711(南越前町河野) |
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