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中世には象もやって来ている国際港、小浜。
続いて小浜湊の説明をしよう。ここも敦賀と同じく、畿内への物流の拠点となっていた湊だ。南北朝期に三方郡気山津が衰退するとともに若狭国の中心的な湊として発展したといわれている。中世には若狭国衙税所今富名であったことが知られており、応永28年(1421)には商業を担っていた問丸たちの訴えによって今富名代官が改替されるという事件が起きている。これは小浜において商業、流通
を担う問丸たちの実力の大きさを示すもので、当時すでに小浜が有数の湊となっていたことを示しているといえるだろう。応永15年と19年にはスマトラ島のパレンバン(インドネシア)の王の南蛮船が象などを載せて入津するなど、海外との窓口にもなっていたようだ。
近世に入り、幕藩体制が確立されると、さらに小浜は日本海側の重要な湊として発達し、組屋、木下などの江戸時代初期の豪商が、北国の米や材木を運ぶ船持として活躍している。荷揚げされたものは北国各地から運ばれた米や大豆などの穀物、海産物などで、船積みされたものは敦賀湊同様に茶や木綿などであったと考えられている。
小浜湊が最も繁栄したのは敦賀湊より遅く、延宝年間(1673〜81)から正徳年間(1711〜16)だといわれているが、最盛期だけ比べれば入津量
、入船数ともに小浜湊は敦賀湊よりはるかに少なかった。西回り航路の開発によって敦賀同様に衰微していくが、18世紀末の北前船交易によって一時期湊は復活の兆しを見せる。
ただし、明治維新頃には北前船も少なくなり、大正7年(1918)の国鉄小浜線の開通
によって、湊としての機能は終わり、漁港へと姿を変えいてくことになる。
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三丁町
かつて花街であった三丁町。現在も古い町並みが残る。(小浜市小浜香取) |

立石埼灯台
明治14年(1881)完成の灯台で、日本人だけで設計建築された最初の洋風灯台(敦賀市立石町)
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灯籠
西小川は古くから避難港として知られていた。今も残る常夜燈にその面
影が残る。(小浜市西小川) |

小浜町並み
保存資料館
町並み保存のモデル住宅として半解体修理した明治末期建築の町屋の建物。(小浜市小浜鹿島) |

小浜城跡
この城を中心に城下町が形成されていた。(小浜市城内) |

堀川改修記念碑
この城を中心に城下町が形成されていた。(小浜市城内) |

八幡神社
毎年9月に「放生会」が行われることで知られる神社。古来よりこの宮を中心に門前町的に小浜の町は成立したとされ、町の氏神でもある。(小浜市小浜鹿島)
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象つなぎ石
室町時代にスマトラ島(インドネシア)からやって来た象をつないだといわれる石。(小浜市甲ケ崎)
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