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| 松平春嶽写真(福井市立郷土歴史博物館蔵) |
人材登用の巧みさは、史実が証明。
黒船が来て、徳川二百七十年の世が幕引きを始めた幕末。この騒乱期に、福井は多くの著名人を歴史の舞台に送り出した。彼らの指導者で、福井の偉人として必ず挙げられるのが、第16代福井藩主・松平春嶽(慶永)である。
徳川御三卿の田安家から福井松平家の養子となり、天保14年(一八四三)16歳で初入国した。飢饉や疲弊した藩政により、当時の福井藩財政は火の車。春嶽は中根雪江や鈴木主税ら人材登用を手始めに、藩政改革を推進した。
藩医の橋本左内を重用、熊本から横井小楠を招き、三岡八郎に殖産興業を実践させるなど、そうそうたる面
々が春嶽のブレーンとして藩を再建。さらに明君の眼力に叶った人材たちは、国家をも動かす原動力になってゆく。
将軍継嗣問題で一旦引くも、再び国政の表舞台へ。
春嶽は、早くから開国論を主張。薩摩や土佐ら雄藩の大名とともに、幕政改革もはかる。当時幕府は将軍継嗣問題で勢力が二分、春嶽は英明の聞こえ高い一橋慶喜を推す主導的立場に。紀州藩主徳川慶福を推す側と対立した。
やがて紀州派の筆頭・井伊直弼が大老となり、継嗣問題は春嶽らが敗北する。井伊は春嶽ら一橋派を一掃し、攘夷派を弾圧した。これがいわゆる「安政の大獄」である。
桜田門外の変で井伊が暗殺された後、春嶽は政事総裁職として幕政に復帰する。倒幕佐幕派の対立、大政奉還、王政復古と大変革に見舞われる中、春嶽は徳川家の保全と政局の収拾に努めた。維新後も議定として政府要職に就くが、明治3年(1870)大学別
当(文相に相当)を最後に中央から退き、晩年は文筆活動に専念した。
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春嶽が就いた政事総裁職は、幕府行政の長にあたり、今の首相に相当。1年足らずで辞職するが、近代日本の夜明けに最高権力者となったのだ。 |
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福井神社
福井城跡西の福井神社は、春嶽を祭神とする。戦前、神祇院が管轄する最後の別
格官幣社として昭和18年(1943)に造られた。(福井市大手) |

佐佳枝廼社
福井市役所近く。福井城内の鎮守として徳川家康や結城秀康を祀るほか、春嶽を最初に祭神とした。(福井市大手) |

福井市立
郷土歴史博物館
福井市立郷土歴史博物館1階は、春嶽の遺品や志士らの史料を中心に展示している。
福井市立郷土歴史博物館 0776-21-0489(福井市宝永)
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養浩館
江戸時代の福井藩主松平家の別
邸。「お泉水」とも呼ばれる。池泉回遊式庭園に面
し、数寄屋風書院が建つ。
養浩館 0776-21-0489(福井市宝永) |

木立神社
三国神社内にある。春嶽を祭神とし、春嶽自身も太刀などを寄進している。(坂井市三国町山王) |
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