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安政の大獄に散った、若き志士の熱く短い生涯をたどる。
橋本 左内(1834〜1859)
   
橋本左内画像(福井市立郷土歴史博物館蔵)

学問への情熱は幼い頃から抜きんでて。


 銅像や肖像に見る橋本左内の顔は、いつも決まって厳しい。口を固く結び、上がり気味の眼は鋭い光を放つ。その表情からも、国家を憂い26歳という若さで生涯を閉じた志士の激しさが伝わってくる。
 左内は福井藩医・橋本長綱の長男として生まれた。幼少から学を好み、10歳で『三国志』を通 読したという。15歳の時に『啓発録』を著し、学問を志す心構えを強い言葉で綴っている。
福井随一の儒学者・吉田東篁に教えを受けたほか、大坂の緒方洪庵が開く適塾で蘭学も学んだ。父の死去により19歳で福井藩医を継ぐが、折しも嘉永6年(1853)にペリーが来航。情勢の急変に左内は動かされたのだろう、藩の許可を得て、勉学のため江戸へ発った。
 そんな左内の学問への情熱を、16代福井藩主・松平春嶽は見逃さない。藩校明道館の改革を命じられた左内は、洋書習学所を新設するなど、人材養成の大役を果 たした。

世界的視野を持つ国家構想は、刑場に散る。


 将軍継嗣問題や外交など、混迷を極めている国事に関しても、左内は春嶽の命を受け奔走した。これは”日露同盟論“”雄藩連合論“など大きな国家構想を抱く左内ならではの活躍であった。
 しかし安政5年(1858)、彦根藩主・井伊直弼が大老に就き、井伊と対立する春嶽は隠居謹慎を命じられた。左内の活動もここに挫折する。井伊直弼は有名な”安政の大獄“
を断行。翌6年に捕らえられた左内は、江戸伝馬町の獄舎で斬首刑に処された。
悲劇の志士・左内の人気は今も高く、命日の10月7日に左内公園で行われる墓前祭には多くの市民が参列する。


こぼれ話
 左内は西郷隆盛とも出会っている。初対面 で小柄な左内を
“小者”と決めつけた西郷は、庭の相撲を見ながら話を聞くが、次第に敬服。後に無礼を詫びたという。
名所を巡る

生家跡
生家跡と「啓発録」の碑とともに、左内の産湯に使われたという井戸も残っている。(福井市春山)

丹巌洞
足羽山の西麓にある草庵。福井藩医・山本瑞庵が造った。左内や横井小楠、中根雪江らも訪れている。(福井市加茂河原町)

吉田東篁生誕地
福井藩儒であり、左内の師でもある吉田東篁の生誕地。(福井市日之出)

左内公園
処刑された左内の遺体は江戸に葬られたが、のちに現在の左内公園内の橋本家墓所に改葬された。(福井市左内町)

福井市立郷土 歴史博物館
左内の書や肖像などを展示。『啓発録』も販売している。 福井市立郷土歴史博物館 0776・35・2845(福井市足羽)