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| 蓮如銅像(吉崎蓮如公園)
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分かりやすい教えで、吉崎はみるみる一大宗教都市に。
仏教王国福井を語るなら、道元とならび蓮如の存在は外せない。高度な仏教哲学を究めた道元にくらべ、蓮如は卓越したカリスマ性で民衆の圧倒的な支持を得た。
浄土真宗の本願寺に生まれ、43歳で八世法主に就く。当時の本願寺は比叡山派に圧倒されていたが、蓮如は真宗の開祖・親鸞の著作を重んじた布教活動を展開。比叡山衆徒を刺激し、やがて本願寺は襲撃、破却されてしまう。
蓮如が北陸・吉崎に赴いたのは文明3年(1471)のこと。北潟湖畔の吉崎は水陸交通
の要であり、門徒を集めるには絶好の場所。とはいえ蓮如自身の魅力が多くの信者をひきつけたのは間違いないだろう。
蓮如の伝道方法とは、親鸞の教えを分かりやすい表現で、多くの民衆に説くことにあった。悩みを訴える人々には”御文“と呼ばれる手紙を書いたり、朝夕の勤行を簡素化したりするなど、一般
への浸透をはかった。
このため吉崎一円はたちまち宗教都市へと発展。北陸はもとより遠くは信州や奥州からも信者が集まり、宿泊所や商店が並ぶ”寺内町“が形成されていった。
弾圧を逃れて退去。今も”教え“は信者の心にあつく……。
当時の北陸は、越前では朝倉氏と甲斐氏が対立、加賀では富樫氏の内紛が起こり、不安定な情勢。平等と連帯の教えを受けた生活の苦しい門徒達は、蓮如の意図に反して次第に過激化する。他宗派からの迫害も受け、蓮如は滞在4年で吉崎を去った。そして門徒は一向一揆と化し、戦国時代の一大武装集団となって行く。蓮如の吉崎滞在は短いものだったが、真宗発展につとめた役割は大きい。吉崎は今も多くの信者が足を運ぶ、聖地なのである。
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吉崎御坊に残る伝説で名高い「嫁威し肉付面
」。吉崎参りの嫁を懲らしめようと姑は鬼の面を被るが、外れなくなる。蓮如の教えの通
り念仏を唱えると、ぽろり。この面は今も吉崎に残っている。 |
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吉崎御坊跡
北潟湖を見おろす御山にある。高村光雲作の蓮如像が立ち、今も参詣者が絶えない。現在は『吉崎蓮如公園』として整備されている。(あわら市吉崎)
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蓮如上人記念館
蓮如に関する貴重な資料が揃う。蓮如上人記念館 0776-75-2200 |

吉崎御坊跡周辺
「狐狸のすみか」と呼ばれた吉崎も、蓮如の登場で一大宗教都市に。今も寺院や民家が軒を連ねる。(あわら市吉崎)
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興行寺
蓮如はこの地に立寄り、自画の御真影(薄絹の御影)を残したという。(永平寺町藤巻) |

西超勝寺
緊張の高まった吉崎を退出した蓮如が一時滞在した。幼少の蓮如を描いた「蓮如鹿子の御影」がある(福井市藤島町)
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