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文書が語る先人たちの素顔 一覧へ戻る戻る次へ

戦国時代有数の文化人との交流をたどる。
武田元光(14941551と三条西実隆(1455〜1537)
   
再昌草(宮内庁書陵部蔵) 元光の父、元信の100ケ日の命日に当たり、実隆から寿量 品(お経の一種)とその包み紙に書き記した歌が贈られ、元光がその厚情に対して返歌したことが記されている。内容は「花の色をわすれがたみに雪きえし後せの山の春も露けし」(花の色を形見とするように雪が消え、春を迎えた後瀬山だが、まるで涙の露に濡れているようだ)という実隆の歌に「花の色をわすれがたみのことの葉につゆかかるへき袖としらすや」(花の色を形見と詠むお歌を頂いて涙の露に袖を濡らすことになろうとは思いもよらぬ ことであった)とのお礼の返歌。

武田元光 若狭の戦国大名。父である元信の出家に伴い、家督を継ぐ。丹後の海賊の来襲などその領国支配はあまり安定しなかった。写 真は武田元光画像(発心寺蔵) 三条西実隆 宗祇から古今伝授を継承するなど、和漢の学問に通 じた室町時代屈指の文化人で、内大臣にも任じられている。写 真は三条西実隆画像(二尊院蔵)

交流を通じて、武将としての高い教養を身に付ける。


 戦国時代の若狭を治めていたのは源氏の名門として知られる武田氏であった。元光は永正16年(1519)に家督を継ぎ、後瀬山城を築くなど戦国大名として領国経営に心を砕くが、京都出兵での敗戦や重臣の反乱などその支配は安定しなかった。だが、元光はそんな領主としての一面 以外に、かなり高い知識を身につけた教養人という顔を持っていた。そのいい例が当時の最も著名な文化人であった三条西実隆との交流だ。実隆の書いた『実隆公記』や『再昌草』に元光の名前がしばしば登場し、和歌の詠草(下書き)を送って批評を乞うたり、歌題を求めて、それについて質問したりしているのだ。当時、数ある武家の中でも元光ほど文芸に興味を示した者は少なく、まさに風流人であった。地方にいながら文芸にのめり込んだ元光。そのレベルは地方領主の域をはるかに超えている。

名所を巡る

発心寺
武田元光が創建した寺で、彼は晩年をここで過ごした。元光画像、後柏原天皇の歌碑などが現存している。 (小浜市伏原)

武田元光宝篋印塔。元光の墓で、発心寺の裏山にある。

元光が手折って後柏原天皇に献じたという綸旨(りんじ)の梅。

後瀬山城跡
元光が築き、その後4代46年にわたって武田氏の居城となった。残念ながら現在は石垣が残っているのみだ。 (小浜市伏原・小浜男山)