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文書が語る先人たちの素顔 一覧へ戻る戻る次へ

幕政改革に命をかけた男たちの交わりを知る。
中根雪江と(18071877と橋本左内(1834〜1859)
   

中根雪江書状(福井市立郷土歴史博物館) 安政4年7月23日付で雪江から左内へ送られた手紙。本文で触れたこと以外に、蘭書入手のことなどが記してあり、雪江が国学の他に洋学にも深い理解を示していたことが分かる。

中根雪江 松平春嶽の第一の近臣として、藩政改革を強力に推進し、黒船来航後は中央政界でも活躍。公武合体を促進するため、幕府と薩長間の関係を調整するなど幕末の政局でその周旋力を大いに発揮した。写 真は中根雪江写真(福井市立郷土歴史博物館蔵) 橋本左内 大坂の適塾で蘭学を学ぶなど最初は医学を志したが、藤田東湖らと交わるうちに窮迫した時勢に目覚め、国事に奔走するようになる。だが、将軍後嗣問題で政争に敗れ、安政の大獄で刑死(享年26歳)した。写 真は橋本左内画像(福井市立郷土歴史博物館蔵)

江戸に到着した左内とともに国事に奔走。


 手紙の差出人である福井藩の重臣中根雪江は、藩主松平春嶽を助けて藩政改革を推進し、14代将軍の継嗣や条約勅許問題など幕政にも大いに関与した人物だ。この手紙は当時江戸にいて、一橋慶喜(後の15代将軍)を将軍の継嗣にしようと奔走していた雪江が、最大の協力者である橋本左内の江戸詰を藩に求め、それが正式決定したことを知らせたもの。「来着のみ相待居申候」と書かれてあり、その到着を心待ちにしている様子がよく分かる。左内はこの江戸出府から本格的に国事に携わるようになり、縦横無尽の働きをするようになっていく。このように雪江は左内の才能を高く評価し、江戸へ呼び寄せる働きかけをしているのだが、藩医であった若き左内が政治に参画できるようになったのは雪江の強力な後押しがあったからであった。それほど雪江はその才幹にほれ込んでいたのだ。

政争に破れ、安政の大獄で左内が刑死。

 この手紙の1年後、2人が情熱を傾けた将軍継嗣問題は一橋派が破れて決着し、世に言う「安政の大獄」のため31歳の春嶽は隠居謹慎となり、左内も牢に繋がれ、刑死してしまう。雪江は処罰を免れたが、政治の第一線から退くことになり、そのため福井藩の活動は大打撃を受けることになった。雪江の手紙の到着後、約2週間で左内は福井を離れるのだが、このような悲惨な運命が待ち受けている左内にとって、この時が福井との永遠の別 れとなってしまった。
 左内の死後も雪江は春嶽を助けて幕末の政局で活躍する。だが、左内がいればその活動はさらに広がりが出たに違いなく、その死は雪江にとって大きな損失となった。

名所を巡る

恒道神社
福井神社の境内社である恒道神社。中根雪江と橋本左内、鈴木主税(藩政改革の重鎮)の3人が祀られている。(福井市大手)

中根雪江顕彰碑
松平春嶽などが祀られている佐佳枝廼社境内に雪江の顕彰碑がある。彼の功績の大きさを今に伝えてくれる数少ない遺跡のひとつだ。(福井市大手)

中根雪江旧宅跡
雪江の旧宅跡。政治活動から引退した雪江が晩年を過ごした。海が近く、釣りをよく楽しんだという。(坂井市三国町宿)

中根雪江旧宅跡
福井城下にあった雪江の旧宅跡。現在は碑しか残っていないが、彼の政治活動の原点ともいえる地だ。(福井市宝永)