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文書が語る先人たちの素顔 一覧へ戻る戻る次へ

尊王攘夷という大義に殉じた志士の夫婦愛を偲ぶ。
梅田雲浜(1815〜1859)と梅田信子(1826〜1855)
   
雲浜訣別の詩(小浜市立図書館蔵) 「妻臥病床児叫飢 挺身直欲当戎夷 今朝死別 与生別 唯有皇天后土知……」と続く文からは、病床の妻と飢えに叫ぶ子供を置いてでも命を捨てて国のために尽くそうという雲浜の心意気がよく伝わってくる。

梅田雲浜 小浜藩士矢部岩十郎義比の次男。もともと優秀な崎門学者だったが、ペリー来航以降は尊王攘夷の志士として活躍。将軍継嗣問題・条約勅許問題では一橋慶喜擁立、勅許反対を推進した。安政の大獄で獄中病死。肖像画は梅田昌彦氏所蔵のもの。 信子は崎門学者の上原立斎の娘。弘化元年(1844)に梅田雲浜と結婚し、2人の子宝に恵まれた。才色兼備の女性と伝えられており、雲浜を支える妻としての数々のエピソードが知られている。写 真は梅田信子の描いた絵と和歌(梅田昌彦氏所蔵)

病床の妻を置いてでも、命を賭けて国事に奔走。


 幕末には西郷隆盛など数多くの志士が活躍したが、小浜藩出身の梅田雲浜もまた尊王攘夷派の志士として全国に名を馳せた人物だ。もともとは崎門学(山崎安斎を祖とする朱子学の一派)の優秀な学者だったが、ペリー来航以来の政情不安の中、政治運動に身を投ずるようになった。活動開始後は皇居守護のための十津川郷士の周旋、長州藩(現山口県)や水戸藩(現茨城県)への遊説など忙しい日々。また、稼いだ金は他の志士との交流のためにそのほとんどを費やすなど、まさしく尊王攘夷運動のために人生を捧げるような毎日が続いた。
 そんな生活の中、志士として活躍する雲浜を支えたのが妻、信子だった。弘化元年(1844)の結婚以来、29歳で没するまで困窮した家計をなんとかやり繰りしながら雲浜を裏から助けた良妻である。その夫婦愛は右の「雲浜訣別 の詩」にまつわるエピソードでもよく分かる。
 雲浜がこの詩を詠んだのは安政元年(1854)にロシア軍艦が大坂天保山沖に現れて条約締結を迫った時のこと。病床の妻を置いてでも、十津川郷士とともに軍艦を打ち払いに行くことを決心した雲浜は、その決死の覚悟を詩に託して信子に伝えたといわれる。それに対して彼女は嘆くどころか励ましたと伝えられており、その絆の深さを知ることができる。
 信子はこの翌年に死去したが、雲浜は安政の大獄に倒れるまで目覚ましい活躍をした。詩で詠まれたような国への想いと妻の愛が彼を尊王攘夷の運動へと駆り立てたのだ。

名所を巡る

梅田雲浜誕生地碑
昭和7年に造られた碑。雲浜の誕生した元矢部家屋敷跡にある。(小浜市千種)

順造館表門
小浜藩の藩校であった順造館の表門。幼少の頃、雲浜もここで学んでいる。(小浜市雲浜)


松源寺にある雲浜の墓。東京都にある海禅寺の墓地から分骨されている。(小浜市北塩屋)

雲浜銅像
小浜中央児童公園にある雲浜の銅像。像形は雨田光平の作。(小浜市大手町)