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文書が語る先人たちの素顔 一覧へ戻る戻る次へ

文豪の心を大きく揺さぶった師弟愛に学ぶ。
藤野厳九郎(1874〜1945)と魯迅(1881〜1936)
   
『藤野先生』(芦原町国際交流センター蔵) 恩師藤野厳九郎との思い出が書かれている。魯迅と藤野は日本で別 れた後、再び会うことはなかったが、藤野から受けた数多くの親切を忘れられなかった魯迅は終生彼を恩師として尊敬していた。日本で『魯迅全集』が発売されるに当たり、消息不明の藤野と連絡がとれるのではと『藤野先生』を全集に入れることを熱望するほど、魯迅は藤野に会いたがっていたという。

藤野厳九郎 芦原町下番生まれ。愛知医学校(現名古屋大学)卒業後、仙台医学専門学校(現東北大学)教授などを歴任。大正6年(1917)に福井県に戻り、三国で開業、以後地元の医者として生涯を終える。写 真は芦原町国際交流センター所蔵。 魯迅 本名は周樹人。浙江省紹興市生まれ。「阿Q正伝」や「狂人日記」など数々の小説や詩、散文を発表。初めて口語による小説を発表するなど、中国の文学革命に大いに貢献。中国近代文学の父とも呼ばれている。写 真は芦原町国際交流センター所蔵。

魯迅は日本留学中に厳九郎と出会う。


 魯迅。この国際的な文豪の名前はあまりにも有名だ。『狂人日記』で中国最初の口語による小説を作り、文学革命の指導者として活躍した中国近代文学の父である。
 実はこの魯迅、日本に留学していた時期がある。それは明治35年(1902)からの約6年間で、藤野厳九郎との出会いは彼が仙台医学専門学校(現東北大学)で医学を学んでいた時のことであった。厳九郎は当時教授で、解剖学を教えており、魯迅は学生として彼の教えを受けたのだ。この時、日本語の講義に慣れていない魯迅のために授業のノートを添削するなどいろいろと便宜をはかっており、魯迅はこの恩を終生忘れることがなかった。

『藤野先生』の執筆で恩師を想う。


 仙台で医学の勉強に励んでいたある日、魯迅は人生を変える大きな出来事に出会う。それは授業の後、幻灯機(スライドプロジェクター)で日露戦争の一場面 を見たことであった。内容は中国人がロシアのスパイとして日本軍に殺されるものであったが、魯迅が衝撃を受けたのはその処刑シーンではなく、むしろそれを平然と見物している中国人の姿であった。これによって魯迅は肉体ではなく、中国人の精神を治療しようと文学を志すようになる。この後の魯迅の活躍は先述の通 りだ。
 大正15年(1926)、魯迅は日本での生活ぶりや恩師厳九郎との思い出を書いた『藤野先生』という一文を発表する。厳九郎とは帰国後連絡が取れず、魯迅の死後になって初めてこの一文により二人の意外な関係が明らかになった。この心温まる交流は厳九郎の故郷芦原町と魯迅の故郷紹興市が姉妹都市となるなど、今も日中間の貴重な懸け橋となり続けている。

名所を巡る

藤野厳九郎記念館
三国で厳九郎が住んでいた住居を移築したもの。当時の生活そのままの姿で保存されている。藤野厳九郎記念館 0776・77・3331(あわら市舟津)
芦原町国際交流センター
厳九郎の遺品や関係資料が展示されている「藤野厳九郎資料室」がある。芦原町国際交流センター 0776・77・3331(あわら市舟津)

藤野厳九郎先生顕彰碑
あわら市下番区民会館の敷地内に立つ。厳九郎の業績を称えるため、故郷に建てられた。(あわら市下番)

惜別の碑
足羽山にあり、魯迅と厳九郎の交わりを記念して昭和39(1964)年に建てられた。(福井市小山谷町)