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時代に翻弄された武人 一覧へ戻る戻る次へ

足利尊氏に破れた 悲劇の歴史をたどる。
新田義貞(1301〜1338)
   
新田義貞画像(藤島神社蔵)

後醍醐天皇の命を受け、鎌倉幕府を滅ぼす。


 上野国新田庄(群馬県太田市)で生まれた新田義貞は鎌倉倒幕のため元弘3年(1333)に出陣。同年5月には一気に鎌倉幕府を滅ぼすに至り、後醍醐天皇による建武の新政が開始される。だが新政権はわずか3年で崩壊、後醍醐天皇は光明天皇(北朝)に位 を譲り、吉野(奈良県吉野町)に逃れて南朝を樹立した。そこで義貞は勢力挽回のために恒良・尊良両親王を奉じ北陸に下向、敦賀・金ヶ崎城で足利軍を迎撃する。延元2年(1337)3月、10万余の足利軍が総攻撃を開始すると、城内の尊良親王、義貞の嫡男・義顕は城兵と共に自害、恒良親王は捕らえられ、あえなく落城してしまう。
 その悲報を杣山で聞いた義貞は、平泉寺衆徒や越後の助けを借り再起、延元3年(1338)には足利軍を黒丸城にまで退却させた。勢いにのる新田軍であったが、味方の離反や地形の悪さもあり、戦いは長期戦に突入する。
 その年の7月2日、藤島城を攻めあぐねた義貞は自ら50余騎を従えて灯明寺を出立したところ、敵軍300余に遭遇。相手は弓矢、義貞軍は少数騎馬隊、味方兵が身を挺する中、義貞の眉間を一本の流れ矢が貫き、彼は南北朝の争いから永遠に姿を消した。


こぼれ話
 義貞の死後、彼の寵姫・勾当内侍は京都に戻り尼になったというのが一般 的な説だが、武生市の勾当原で一生を終えたとの伝説も残っている。
名所を巡る

藤島神社
新田義貞を祀る。灯明寺畷の水田から掘り出された義貞のものと伝えられる冑(鉄製銀象眼冑・重要文化財)や弟・脇屋義助のものと伝わる太刀などが保管されている。(福井市毛矢)

杣山城跡
義貞の寵愛を受けた当代一の美女・勾当内侍は京都から杣山城に来ており、彼に逢うため足羽に向かった。その途中の浅水橋で彼の死を知り、杣山に戻った。追手の目をごまかすため隠れていたという「姫穴」もある。(南越前南条阿久和、中小屋・南越前町今庄社谷)

金崎宮
恒良親王や自害した尊良親王を祀る。敦賀湾を一望できる城跡からは、気比斉晴が口にくわえた縄で恒良親王の舟を引き逃れたという甲楽城浦が見える。(敦賀市金ヶ崎町)

灯明寺畷(新田塚)
国史跡の灯明寺畷新田義貞戦没伝説地。この辺りで義貞が戦死したといわれる。なお、称念寺(丸岡町)境内には義貞の遺骸を納めた墓が建っている。(福井市新田塚町)