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時代に翻弄された武人 一覧へ戻る戻る次へ

文芸と芸術に秀でた武将の生涯を追って。
朝倉 義景(1533〜1573)
   
朝倉義景画像(心月寺蔵)

激動の戦国時代に生きた朝倉氏最後の当主。


 一乗谷朝倉5代目当主・義景は戦国大名では特に、文芸・芸術を愛した武人として知られている。なかでも安波賀河原で行われた“曲水の宴”や大窪ノ浜で催された“犬追物”
などの都風の興行は特に有名で、将軍家の叔父・大覚寺義俊など京都から文化人も参加しての大がかりなものであったと伝えられている。
 だが、時代は戦国の世。義景も芸術にだけ力を注ぐわけにはいかなくなる。永禄10年(1567)、政権争いから若狭に逃れた足利義昭を一乗谷へ迎えた義景は、義昭の元服式には加冠親役を務め、二人は上洛を誓い歌を交わしあう。だが身内の不幸が重なり、出陣は延期。なかなか動かない義景に不安を感じたのか、義昭は信長を頼り一乗谷を去ってしまう。対照的に義昭を擁立し、上洛を果 たした信長は全国平定のため、命令に従わない朝倉氏に兵を向けるようになった。
 そして元亀元年(1570)、織田軍と朝倉・近江の盟友浅井連合軍は滋賀県姉川で最大の合戦をする。その後、義景は本願寺と手を組み、比叡山に立てこもっていたが、将軍・義昭の調停で和議が結ばれ、一応の終結を迎えた。だが、それも束の間、信長軍は今度は浅井氏攻撃を開始。翌元亀4年(1574)に室町幕府を滅亡に追い込むとその動きはますます盛んになり、浅井氏を援護していた義景は戦略の誤算や味方の裏切りが重なったこともあって、陣を進めた近江から敗走。途中の刀根坂から疋田の間で、信長軍に追いつかれ殺された朝倉軍は3千人を越えた。
 命からがら、一乗谷へ帰った義景はそこで家族とともに自害しようとしたが、家臣のすすめで大野に脱出。押し寄せた信長軍の手により谷は焼かれ、3日3晩で灰と化した。
 家族とともに大野に逃れ再起を図った義景であったが、頼みの平泉寺が動かず裏切った一族の攻撃にあう。命運を悟った義景は自ら生を絶ち戦国大名朝倉氏100年の歴史に幕を下ろした。天正元年(1573)41歳であった。


こぼれ話
 浅井長政は信長の妹・お市の方を妻としていたが、長年の盟友・朝倉軍に味方。それを知ったお市は兄を救おうと小豆の小袋を送ったといわれる。
名所を巡る

鹿蒜神社
鹿蒜神社は光徳院たちを祀っている。(南越前町南今庄)

諏訪館跡庭園
諏訪館跡(福井市城戸ノ内町)。義景の最後の妻・小少将を住まわせた。天正元年、母・光徳院、小少将、愛王丸の3人は義景自刃後に捕らえられ、京に送られる途中に鹿蒜の里(南越前町)で刺殺された。

九頭竜川
貞景・孝景・義景の3代に仕えた朝倉教景(宗滴)は、度重なる一向一揆をものともしない軍事力を支えた名将であった。一揆とは九頭竜川をはさんで度々戦いを交えたという。(福井市)

刀根坂
刀根坂合戦での戦没者墓塔群。信長軍の追い打ちは凄惨を極め、主要人物を含む約3千人の朝倉軍が討ち死したと伝えられる。(敦賀市疋田)

南陽寺跡庭園
京から文化人を招いての遊宴、歌会が催された。(福井市城戸内町)


一乗谷朝倉氏遺跡内にある。義景の辞世は「七顛八倒 四十年中 無他無自 四大本空」と伝えられる。(福井市城戸ノ内町)