内部抗争から佐幕派・尊王派との権力争いの渦中となる。 日本の歴史を大きく変えた大政奉還の2年前、慶応元年(1865)の敦賀において353名が斬首刑に処せられるという歴史上類をみない大事件が起こった。刑を受けたのは当時63歳の元家老武田耕雲斎を党首とする水戸・天狗党の一派である。 そもそもの事の起こりは水戸藩の内部抗争に由来する。 ペリーの来航後、日本国内では攘夷論が盛んになり、水戸藩でも脱藩浪士が中心になって桜田門外の変を起こしたり、第9代藩主・徳川斉昭が尊王攘夷的思想の持主と例外ではなかった。だが、藩主宛てに送られてきた密勅の取扱いをめぐっては藩が佐幕派と尊王派の二つに分裂し内部抗争へと発展する。さらに、斉昭の元側近であり、尊王派・藤田東湖の四男・小四郎が筑波山で挙兵したため、尊王派も実力を持って改革を望む激派(水戸天狗党)と穏健に事を運ぼうという鎮派(諸生党)に分裂した。 当初、武田耕雲斎は尊王鎮派の水戸藩家老であり、斉昭の子・一橋慶喜(後の徳川慶喜)の上洛の際は乞われて随行したほどの人物で、天狗党を説得する姿勢をとっていた。だが、藩権力から締め出されていた保守派の門閥上士層らが隙をついて挙兵し水戸を占領してしまう。これに対抗するため、武田ら鎮派は天狗党と連合して保守派らと戦闘を続けるが、次第に尊王攘夷派と幕府・門閥派の戦いへと発展し熾烈を極めていく。 ここで武田らは京都にいる禁裏守衛総督の一橋慶喜を頼り尊王攘夷の意志を訴えようと決意し、中山道経由で京を目指す。だが、これを聞いた慶喜は水戸浪士を「浮浪の徒」と断じ、勅許を得て自ら追討軍を動員する。「尊王攘夷の貫徹」を胸に越美国境の蝿帽子峠を越え池田を経由して敦賀に入った天狗党であったが、雪による寒さと飢え、諸藩軍の包囲に元治元年(1864)12月11日、新保宿で加賀藩に投降した。加賀藩の扱いは同情的で、彼らは市内の寺社に収容され元旦には鏡餅や饅頭などを給付されている。だが、慶応元年(1865)幕府軍に引渡されると扱いは一転、鰊倉16棟の劣悪な環境下に拘束される。天狗党に世間の同情が集まるのを恐れる幕府は取り調べも簡素に彼らの斬首刑を決定、同年2月4日、来迎寺野の処刑場に引き出された耕雲斎は「咲く梅の 花ははかなく 散るとても 香りは君が 袖にうつらん」と辞世を残し松原の露と消えた。 |  | 天狗党を処刑する際、幕府は福井・小浜・彦根の三藩に死刑執行人差し出しを命じたが、福井藩・松平春嶽はこれを断ったという。 | |   天狗党墳墓 |  鰊倉 彼らが幕府軍に引き渡されてから収容された鰊倉(敦賀市松原町) |  松原神社 彼らを祀る松原神社(敦賀市松島町) |  新保陣屋 元治元年12月11日、新保の本陣に着いた耕雲斎らは、加賀藩の陣営に通 行の許可を求めた。しかし、天狗党追討軍を率いていた一橋慶喜はこれを許さず、耕雲斎らは彼に対して敵対行為をとることは忍びないと降伏を決定した。(敦賀市新保) |  永覚寺 仮白州が設けられた永覚寺。取調べは簡単なもので、死罪353人、遠島136人など次々と刑が決まった。刑場は来迎寺野に設けられ、5回にわたって処刑が行われた。(敦賀市金ケ崎町) |   本勝寺(上) 長遠寺(下) 加賀藩に投降後、耕雲斎ら水戸天狗党は、本勝寺、本妙寺、長遠寺に収容された。(敦賀市元町) | | |