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時代に翻弄された武人 一覧へ戻る戻る次へ

2・26事件に巻き込まれた県人初の首相の故郷をめぐる。
岡田 啓介(1868〜1952)
   
岡田啓介写真(福井市立郷土歴史博物館蔵)

昭和最大のクーデターで九死に一生を得る。


 昭和9年(1934)7月、斎藤内閣の後を継ぐ形で岡田啓介は、県人初の内閣総理大臣に任命された。当時は3月事件、10月事件、5・15事件と不穏な出来事が相次ぎ、政治は腐敗し、汚職事件が頻発していた。満州で政治への不信感から軍による満州事変が起こると、全国的に「我が国の政・財界の腐敗、軍内派閥の対立と国家、民生を忘れた国内の情勢に対し、昭和維新を断行し、乱れた世相を正そう」という空気が強まっていった。つまりいつクーデターが起こっても不思議ではなかったのだ。斎藤前首相も「こういう時代には岡田のような粘り強く自分の信じる道をゆく男が良いと思う」と岡田を推したという。海軍大臣引退後、自宅にいた彼は「ただならぬ 時勢だから」と引き受けたものの、それなりの覚悟はしていた。
 その約1年半後、昭和11年2月26日午前5時、2・26事件は勃発した。30年ぶりの大雪で白一色に染まった街の静寂を銃声と悲鳴が打ち破る。「昭和維新」を信奉する青年将校ら20余人が約1400人の兵士を指揮し、政府要人宅を襲撃。斎藤内大臣、高橋蔵相、渡辺教育総監、鈴木侍従長が銃弾に倒れる中、岡田首相は女中部屋の押し入れに逃れていたために難を逃れる。彼を逃がすため身代わりとなったのは彼の義弟・松尾伝蔵大佐だった。
 この昭和最大の事件で九死に一生を得た岡田だが、事件の2日後に天皇に拝謁した際、彼は自ら謹慎を申し出る。軍を押さえ切れなかったことに責任を取って切腹するよりも生きて新たに奉公する道を見つけようとしたのだろう。
 決起から4日後、事件は終結するが、時代の流れは一気に戦争へと加速する。内閣を総辞職し、ひたすら謹慎をしていた岡田だったが、太平洋戦争が激しくなると終戦工作のため「東条内閣」打倒に乗り出した。そして昭和20年、岡田が尽力した鈴木貫太郎内閣成立後、日本はようやく終戦を迎えた。


こぼれ話
 思い切った簡素生活を送った岡田首相。給料のほとんどは他人のために使い果 たし、子息は幼心に「家はよほど貧乏なんだな」と思ったという。
名所を巡る

岡田自筆の扁額。「自彊息まず」とは、「易経」中の言葉で、「自分からすすんでつとめ励んで怠らない」という意である。(藤島高校蔵)

福井市中央公園
福井市中央公園に立つ像。手には宮中から送られた鳩杖を持つ。生涯を通 じて天皇を敬愛していたという。(福井市大手)

生誕地
岡田首相生誕の地に建てられた碑。慶応4年(1868)福井藩士の長男として生まれ、海軍大将、連合艦隊司令長官、海軍大臣を経て、内閣総理大臣に就いた。(福井市日之出)

旭小学校
事件当日、岡田首相の身代わりとなった義弟・松尾伝蔵大佐の碑。総理になにかあってはと自ら秘書となり、外見も似せていたという。ちなみに岡田と松尾はこの旭小学校で学んでいた。(福井市手寄)