【福井駅周辺30分観光】福井城と合わせて訪れると深さ倍増! 養浩館庭園と郷土歴史博物館
前回は福井城についてのざくっとした記事でしたが、実際に福井城主であった越前松平家はどのような変遷を経てきたのか、さらにこの福井自体がどのような歴史をたどってきたのか、福井城の先にある「養浩館庭園」と「福井市立郷土歴史博物館」を合わせて訪れると、より福井の深さがわかります。もう30分観光で済まないかも…

宮田耕輔
福井のまちづくりをライフワークに、ギャラリーを運営し、まちあるきガイドを育成し、毎年映画を撮り、映画祭を開催し、時々超長文のブログを書いています。
https://fukuitown.fun

もはや30分では済まされない…
前回は福井城についてご紹介しましたが、より深堀りするためのスポットとして、今回は「福井市立郷土歴史博物館」と「養浩館庭園」をご紹介します。
この両スポットは隣同士に建っていて、セットの入場券(350円)があるので、まずはそのチケットを買いましょう。片方だけだとせっかくの福井観光もちょっと片手落ち、という感じになります。
福井城から徒歩10分弱の場所なので、前回の旅とは異なる「福井駅周辺30分観光」として訪れてみてはいかがでしょうか。
オープニングに現れたのは…!
「福井市立郷土歴史博物館」はかつて足羽山にありましたが、2004年にこの場所に移転しました。そのセレモニーにゲストとして来場したのは、当時の高知市長・田崎誠也氏。なんと、坂本龍馬の扮装で現れたのです。
なぜか。これは今から16年以上前にさかのぼるのですが、幕末の頃、勝海舟の使いで坂本龍馬は当時の福井藩主・松平春嶽公に会いに来ます。海軍操練所を作るにあたって5000両を借りに来たのです。春嶽公も“幕末の四賢公”の一人に数えられた素晴らしい藩主で、そのとき竜馬に5000両を渡します。現在だと10億円強くらいですね。
しかし幕末の動乱期もあり、海軍操練所はできず、5000両は返済されることはありませんでした。それから約140年後、借りっぱなしは後味が悪かったみたいで、移転のセレモニー時に「5000両をチャラにしてほしい」と、坂本龍馬に扮して勇んでやってきたのです。そのセンス、最高ですね。
東大寺との間に1300年続く行事も
前置きはこのくらいで。「福井市立郷土歴史博物館」は福井市の、それこそ縄文時代から現代までを紹介しています。福井市は歴史の表舞台に出てくる戦国時代や幕末がクローズアップされがちですが、いやいやそんなことないくらい、いろいろありますねー。
驚いたのが、奈良の東大寺との間に1300年続く行事があったり、平安時代から土地の区画が変わっていなかったり、福井市民としても「へぇー!」なことがたくさんです。
また、福井の戦国武将・朝倉氏が滅亡した後に築城された「北庄城(きたのしょうじょう)」に関する意外なトリビアも。柴田勝家公とお市の方のイメージが強いのですが、実際には合計7名が入れ替わりで城主になっていたそう。築城から焼失までが約10年で、そこから福井城築城が始まるのが1600年だから、約17年くらいでお城も再建されてころころ変わっていました。誰が城主だったかはここにきて確かめてくださいね。
博物館の館外には福井城の外堀に設けられた門の一つ「舎人門(とねりもん)」の遺構が発掘され復元されました。ここが福井城の最北部の一部でもあるので、やっぱり福井城ってデカかったなぁ、とつくづく思います。さらに詳しく聞きたいときは博物館のボランティアガイドさんもいますので、お気軽に訪ねてください。
全国ランキングトップ10圏内の美庭園
そして、お待たせしました。この記事本命の「養浩館庭園」です。アメリカの日本庭園専門誌 「Sukiya Living Magazine(The Journal of Japanese Gardening=JOJG)」で2007年からずっとランキングトップ10に位置する、全国屈指の景観を持つ庭園です。
越前松平家の別邸として建てられたようで、1600年代中頃には存在していた記録が残っています。福井城のお堀に水を引く「芝原上水」から水を引き込み、満々とした水をたたえる回遊式庭園を作り上げました。「芝原上水」とは、福井城から約10㎞離れた「九頭竜川(くずりゅうがわ)」の鳴鹿大堰(なるかおおぜき)から用水路を作って運んできた水なんです。
別邸としての顔もあったのですが、幕末期には一時、洋式銃製造所 としての顔も持っていました。そしてこの洋式銃の調練場(いわゆる訓練所)のあった場所が、福井駅すぐのハピリンあたりだったそうです。このときの兵器製造方頭取が、県民ならみなさんご存じ由利公正です。当時、熊本から指南役として福井藩に来ていた横井小楠の薫陶を受け、製造の技術官としての才能、さらには資産運用の才能を発揮し、幕末から明治期にかけて活躍していきます。ちなみに東京の「銀座」が生まれたきっかけを作ったのも由利公正です。
大きな心を養う場所として
ちなみに、江戸時代、養浩館庭園は大きな泉があるということで「御泉水屋敷」と呼ばれていました。養浩館庭園の東側、南北の道路は「御泉水通り」という名称がその歴史を伝えています。福井県民も何故この名前なのかをさらっと答えられる人はそうそういないのではないでしょうか。
「養浩館」と名付けられたのは1884年、明治の代になって17年が過ぎてからの話です。春嶽公が『孟子』の一文「我善養吾浩然之氣(われ、わが浩然の気をよく養う)」から取られています。意味としては「公明正大に、のびのびとした大きな心を養うこと」でしょうか。
おそらく、幕末の動乱期に為政者として、どういう心持ちで政治に臨んでいくか、というときの根本的な考え方として上記の言葉にたどり着いたのでしょう。「広く大きな心を持ちなさい、ここはその心を養う場ですよ」と、後世の人々に伝えているのかもしれません。
訪れてわかりますが、この場所はただただこの庭園を眺めることで心が落ち着く、そんな空間です。これは写真だけではわかりません。写真を撮るだけでもわかりません。この場に身を置いて、初めて春嶽公の意思が伝わると思います。ただいるだけでいいんです。「養浩館庭園」とはそういう場所なのです。
【おまけ】歩いたのでごはんをば
気がついたら1時間以上滞在していました…。ちょうどお昼の時間なので近くのお店『蜂家 西かね』さんへ。こちらはかつて福井駅の近くにあった名店『中華そば 蜂家』さんが高齢化により店を閉めるときに受け継いだお店で、名店の味を完全再現した中華そばです。魚介系の澄んだスープは完飲必至。餃子に和がらしが付いてくるのも当時のまま。意外と合うんですね。





















