明智光秀・戦国ゆかりの地

福井県には全17市町に明智光秀やゆかりの深い人物の逸話があります
明智光秀・戦国ゆかりの地
福井県には全17市町に明智光秀やゆかりの深い人物の逸話があります
一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡
一乗谷朝倉氏遺跡は、朝倉氏五代が戦国時代に103年間にわたって越前の国を支配していた城下町の跡。この朝倉氏最後の当主である義景に、明智光秀は織田信長に仕える以前に仕えていたと伝えられています。遺跡は武家屋敷・寺院・職人たちの町屋や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘され、往時の様子をうかがうことができます。遺跡が国特別史跡、主要な4庭園が国特別名勝、遺跡出土品が国重要文化財に指定されています。
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称念寺
称念寺
称念寺は長崎道場と呼ばれ、鎌倉時代に一遍上人が開いた時宗の寺。明智光秀が斎藤義龍の大軍に敗れ、明智城が滅ぼされた後にその門前に身を寄せていたと伝えられています。称念寺門前では、「明智の寺子屋」や妻・熈子が光秀のために自慢の黒髪を売って連歌会の準備をした「黒髪伝説」が残っており、この伝承に感激した松尾芭蕉が詠んだ句が碑となって残っています。
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金ヶ崎城址・金崎宮
金ヶ崎城址・金崎宮
小高い山にあり眺めも良く、現在は桜の名所としても知られています。戦国時代には「織田軍」が朝倉攻めの際に「朝倉軍」と対峙した場所としても有名で、浅井長政の裏切りによって起きた、戦国史上有名な信長の撤退戦「金ヶ崎の退き口」の舞台です。この時しんがりを務めたのが明智光秀・木下藤吉郎(豊臣秀吉)らであり、彼らの活躍により信長は無事に生き延びることができたと言われています。
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明智神社
明智神社
明智光秀が朝倉氏に身を寄せていた時の住居跡。柴田勝家による天正3年(1575年)の一向一揆討伐の際に、光秀は住民を守るため勝家らに安堵状を出させたと伝えられています。恩人である光秀を人々は現在でも「あけっつぁま」と慕い、この神社を代々守り続けてきました。年に一度、光秀の命日である6月13日のみ御開帳が行われ、本尊である光秀の木彫りの坐像を見ることができます。明智光秀の娘・明智玉(細川ガラシャ)の生誕地とも伝わります。
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西蓮寺
西蓮寺
福井市の東大味地区にある天台宗の寺。織田信長の命を受け、天正3年(1575年)柴田勝家軍が一向一揆掃討作戦を開始するなか、明智光秀は家族と過ごした東大味地区を守るため、柴田勝家・勝定に同地区を守らせる安堵状(地域の安全を担保する書状)を出させたと伝えられています。この2通の安堵状が西蓮寺に保存されており、いずれも福井市の文化財に指定されています。
国吉城址
国吉城址
美浜町佐柿にあった山城。弘治2年(1556年)に築城され、若狭国守護大名の武田氏重臣であった粟屋勝久が城主を務めました。越前・朝倉氏の幾度にもわたる襲撃を耐え抜き、“難攻不落”の城としてその勇名を馳せました。元亀元年(1570)4月には、織田信長や明智光秀らが朝倉攻めのため入城。城跡には居館と山城、両方の遺構が現在でも残っており、戦国時代の風情を今のなお留めています。ふもとには「若狭国吉城歴史資料館」があります。
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熊川宿
熊川宿
熊川宿は、若狭と京都を結んだ鯖街道の重要な宿場町。塗り壁の商家や土蔵など、現在も伝統的建造物が残る旧街道であり、平成27年(2015年)に熊川宿を含む鯖街道が「~御食国若狭と鯖街道~」として日本遺産に認定されました。熊川城主・沼田光兼の娘である麝香は、明智光秀の盟友であった細川藤孝の妻となった人物。その間に生まれた息子の忠興の夫人となったのが、光秀の娘・玉(受洗名ガラシャ)です。
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北潟湖、吉崎
北潟湖、吉崎
北潟湖は福井県の北端部、国道305号沿いに位置する汽水湖で、環境省の重要湿地500に選定されています。明智軍記によると、光秀は「北潟の御萬燈」や「汐越の松(根上がり松)」を観賞し詩を詠み、「吉崎の湖水を船で渡った」そうです。周辺には、蓮如が浄土真宗の北陸における布教拠点とした「吉崎御坊」(国指定史跡)があります。現在はアイリスブリッジという橋が架かり、遊歩道やサイクリングパークが整備されているほか、コイやフナ、ウナギなどの魚釣りや野鳥観察が楽しめます。
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丸岡城
丸岡城
丸岡城は、天正4年(1576年)に柴田勝家の甥、勝豊によって築かれました。2重3層の天守閣は国の重要文化財に指定されており、現存する天守閣としては日本最古級の建築様式を持つ平山城です。丸岡城は「日本さくら名所100選」にも認定されていて、別称「霞ヶ城」の名の通り、春になると400本の満開のソメイヨシノの中に城が浮かぶ、幻想的な美しさを眺めることができます。かつて丸岡には、幕府へ献上もされていた名物「豊原素麺」があり、明智軍記には光秀の山代滞在時に「同行していた称念寺の薗阿上人に丸岡の豊原から素麺が届けられ皆で食べた」と記載されています。
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雄島
雄島
東尋坊近くにある雄島。土地の人には昔から「神の島」とあがめられています。明智軍記には、光秀が称念寺の園阿上人と三国湊などを訪れ、雄島の景色に感激し漢詩を詠んだという記載があり、後世に作られた石碑が2つあります。また、雄島にある大湊神社の歴史は古く、延喜式神明帳にも記載されています。224mの朱塗りの橋を渡り78段の石段を上がると、ヤブニッケイやタブの樹木の中から伝説と神秘に満ちた雰囲気に出会えます。
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瀧谷寺
瀧谷寺
南北朝時代の永和元年(1375年)に創建された三国町最古の寺院。両側を老木に覆われた石畳の参道は、その昔戦国武将の朝倉、柴田をはじめ福井藩、丸岡藩の歴代藩主も祈願のために訪れた歴史があります。また、当寺は信長より「陣取放火」等の禁制状をうけ、兵火よりまぬがれることができました。国指定文化財の鐘楼門は柴田勝家の寄進によるもので、昭和37年に現在の銅葺きに葺き替えました。寺院内の山水庭園は江戸中期の作とも言われ、日本名勝庭園の指定を受けています。
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西光寺
西光寺
西光寺は柴田勝家、お市の方の菩提寺。朝倉氏滅亡後、勝家が北ノ庄に築城する際に吉田郡岡保次郎丸から現在の左内町に移転させたと言われています。境内には勝家、お市の方が眠る墓や、勝家の念持仏や刀、そのほか数々の遺品などが収納・展示されている柴田勝家公資料館があります。

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北の庄城址(柴田神社)
北の庄城址(柴田神社)
北の庄城は数年の歳月をかけて築かれた、石瓦(笏谷石)葺きの9層の天守閣を持つ日本最大級の城であったと知られています。しかし、天正11年(1583)豊臣秀吉の軍に攻め入られ、柴田勝家ら一族の壮絶な最後とともに、わずか築城8年でその幕を閉じ、幻の名城となりました。現在は勝家公・お市の方を祀る柴田神社があり、北の庄城唯一の遺物や鬼瓦、勝家の時代に造られた九十九橋に使われた石柱などが保存されています。
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丹羽長秀墓所
丹羽長秀墓所
織田信長から「友であり兄弟」と信頼され、柴田勝家とともに織田家の双璧と呼ばれた重臣、丹羽長秀。その長秀の墓は福井市つくもにある総光寺(菩提所として長秀が創建)にあります。長秀は勝家自決後の北庄城主となり、越前・若狭、加賀2郡を領する大大名となりました。ちなみに、朝廷から明智光秀は惟任(これとう)姓を、丹羽長秀は惟住(これずみ)姓を賜わっており、羽柴秀吉の羽柴姓は、丹羽長秀と柴田勝家から一文字ずつ取ったものと言われています。勝家の墓所である西光寺も近くにあり、双璧両名の墓は歩いて巡ることが出来ます。
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朝倉義景墓所
朝倉義景墓所
義景公園内にあり、あたりは桜の名所としても有名です。室町から戦乱の世にかけ、5代103年間にわたり栄華を極めた朝倉氏。越前の守護大名だった義景は、織田信長との戦いに敗れ、支族の朝倉景鏡の反逆にあい、六坊賢松寺で自害しました。
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越前大野城
越前大野城
織田信長配下の武将、金森長近が築城した越前大野城。金森長近の息子、金森長則は本能寺の変で明智光秀の軍勢に攻められ、討ち死にしています。城の石垣は野面積みという工法で積まれており、県指定文化財になっています。現在の天守閣は昭和43年(1968年)に再建され、2層4階の大天守閣からは大野市内が一望でき、城内には歴代城主の遺品などが展示されています。城下町は酒蔵や和菓子店等に加え、400年以上の歴史を持つ朝一が開かれるなど、風情が感じられます。また、気象条件により周りが雲海に包まれ大野城だけが浮かんで見える幻想的な景色が見られることから「天空の城」としても注目されています。
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穴馬
穴馬
古くから越前と美濃を結ぶ交通の要衝地だった穴馬(大野市和泉地区)。明智軍記によると、美濃を脱した光秀は、越前に逃れる際、岐阜─福井間の油坂峠を超え、穴馬(あなま)という場所を経由したとされています。また、作家 土橋治重著の「若き日の明智光秀」にも穴間が登場します。九頭竜ダム建設のため、多くの村落が水没しましたが、穴馬地区の神社を合祀した「穴馬総社」は、その名前から競馬ファンに人気の場所になっています。春の桜、夏の緑、秋には色鮮やかな紅葉と四季の美しさが九頭竜湖を彩ります。
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宝慶寺
宝慶寺
宝慶寺は、道元禅師を慕って中国から来日した僧、寂円禅師が弘安元年(1278年)に開いた曹洞宗の古刹。大本山永平寺に次ぐ曹洞宗第二道場の寺であり、寺宝の道元禅師肖像画など多数の県指定文化財が保有されています。また、朝倉氏滅亡後の信長による領内安定策として、寺領のうち百石を認めた、光秀・秀吉・滝川一益の三人が連署した安堵状が残っています(非公開)。
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平泉寺白山神社
平泉寺白山神社
白山信仰の越前での拠点として、717年に泰澄大師によって開かれた平泉寺白山神社。最盛期の戦国時代には国内最大規模の宗教都市として栄えました。圧巻の苔が有名であり、司馬遼太郎氏も「街道をゆく」で絶賛するほどです。朝倉家の滅亡の後、織田側についていた平泉寺は一向一揆に攻められ焼失しました。明智軍記には朝倉家滅亡の頃に平泉寺の記載が多数登場するほか、源義経の物語「義経記」にもその名が記されています。
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永平寺
永平寺
1244年に創建された曹洞宗大本山永平寺。朝倉家とのつながりも深く、明智軍記にも登場し、朝倉義景の永平寺への参詣について、永平寺の歴史等も含め、約6ページに渡り記述されています。朝倉家が滅亡した後の越前国の困難の中、永平寺を含む越前の多くの主要寺院が焼かれました。信長による越前の一向一揆平定後、信長から禁制を下され、柴田勝家、羽柴秀吉、羽柴長秀など、多くの武将が出した禁制、安堵状などが永平寺に現存しています。
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長泉寺山
長泉寺山
明智軍記の中で光秀は築城に相応しい場所に「山城ならば長泉寺山」を挙げています。長泉寺山は鯖江市中央にある標高112mの山で、麓には現在「西山公園」が広がります。織田-朝倉の戦いにて、橋を壊し進軍を止めようとする朝倉勢に対し、織田勢は道端の地蔵を川に投げ埋め進軍。後年谷底から引き揚げられたと伝わる「地蔵橋」が山の麓に残ります。また、明智軍記には光秀が信長に仕える際、鯖江の戸口の網代組の箱を献上したとの記述があります。
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劔神社
劔神社
1800年の歴史を持つ、織田信長の祖先が神官をしていたと伝えられている神社。信長の祖先は、当社の神官で、出身地の地名を取って「織田氏」を名乗ったと言われています。信長も崇敬しており、柴田勝家の書状からもその事実をうかがい知ることができます。本殿は県の指定文化財に、隣接する越前町織田文化歴史館には、神社所有の国宝に指定されている梵鐘をはじめ、織田信長の安堵状や柴田勝家の諸役免許状といった多数の古文書が展示されています。
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幸若舞 敦盛
幸若舞 敦盛
織田信長が愛したとされる伝統芸能「幸若舞(こうわかまい)」。信長は幸若舞の敦盛(あつもり)を特に好み、信長公記にも桶狭間の戦い(1560年)の際に「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり」を舞ったと書かれています。幸若舞は室町時代に桃井直詮(なおあき、幼名 幸若丸(こうわかまる))によって興されました。そのため、直詮が住んでいた越前町西田中周辺は幸若舞の「発祥の地」といわれています。また、信長が朝倉氏を滅ぼした後、幸若八郎九郎へ100石の領地を与えたとの記録が残っています。
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岡太神社・大瀧神社
岡太神社・大瀧神社
神体山である権現山の頂きにある奥の院と、その麓に建つ里宮からなり、奥の院には両本殿が建ち並びます。約1500年前に紙漉きの技を伝えたとされる川上御前を、全国で唯一の紙の神様「川上御前」を祀っています。里宮は江戸時代後期の社殿建築の粋を集めて再建され、その歴史的な面や建築の美しさから昭和59年に国の重要文化財に指定されました。光秀が織田信長に仕官する際には、妻・濃姫(帰蝶)へ大滝の髪結紙を土産として贈ったと明智軍記には記述されています。
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千代鶴神社
千代鶴神社
「明智軍記」には「千代鶴という鍛冶」という記載があります。京都の刀鍛冶師である千代鶴国安は、刀の鍛錬に適した水を求め、現在の越前市に移り住みました。約700年の歴史を持つ越前打刃物の祖として「千代鶴神社」に祀られています。JR武生駅に近く、明智軍記に登場する「龍泉寺」、石仏のある「引接寺」も近くにあるほか、タケフナイフビレッジや越前和紙の里の岡太神社・大瀧神社と合わせた観光にも最適です。
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真柄十郎左衛門直隆の墓
真柄十郎左衛門直隆の墓
日本一の大太刀(3m)「太郎太刀」を用いた実在の豪傑、朝倉家臣 真柄十郎左衛門直隆。明智軍記にも真柄直隆と太郎太刀、息子の真柄隆基と次郎太刀が登場します。真柄直隆は現在の越前市上真柄町に住んでいたと言われ、同市の興徳寺に墓があります。太郎太刀と伝わる刀は尾張の熱田神宮と加賀の白山比咩神社に奉納されています。タケフナイフビレッジや千代鶴神社も近く、「刃物ツアー」にも最適です。
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小丸城跡
小丸城跡
1575年、織田信長は制圧後の越前国に柴田勝家を置き、与力として府中(現越前市)に佐々成政、前田利家、不破光治の3人(府中三人衆)を置きました。越前市味真野の扇状地の扇状部に、成政が築いた小丸城跡が残ります。本丸, 土塁, 堀跡, 城門跡などが残り、石垣は織豊系城郭の典型として貴重な遺構です。明智光秀の坂本城(滋賀県大津市)や勝竜寺城(京都府長岡京市)等と同じ型の瓦が使われていました。
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三田村氏庭園
三田村氏庭園
三田村氏庭園は、高品質を誇る越前和紙の生産地である今立五箇地区にある庭園。江戸時代に作庭された回遊式の築山林泉式庭園であり、現在の庭園が幕末の状態を継承していることが判る点でも非常に貴重です。芸術上の価値及び日本庭園史における学術上の価値は高く、2015年には国指定名勝に選ばれています。また、三田村家(越前製紙工場)には、信長、家康、秀吉等、歴代の権力者が紙の流通を安堵した印鑑が残っています。見学には事前予約が必要です。
冠山峠
冠山峠
冠山峠は福井県今立郡池田町と岐阜県揖斐郡揖斐川町との県境にある峠です。「明智軍記」には「大野の穴馬を通って(=油坂峠を越えて)越前に入った」と記述されていますが、地理的には冠山峠を越えた可能性があります。池田町の須波阿須疑神社(すわあずきじんじゃ)には朝倉貞景(朝倉氏代9代当主)寄進の本殿が現存。御神木の大杉は、高さ約40m、幹周り約10mで、樹齢千数百年とも言われています。
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今庄宿、板取宿、 湯尾峠、木ノ芽峠
今庄宿、板取宿、 湯尾峠、木ノ芽峠
南越前町には歴史上重要な街道、宿、峠が多数あり、明智軍記や太平記には今庄、木ノ芽、鯖波、板取、火打(燧)、湯尾などが多数登場します。今庄宿:北陸と京を結ぶ北国の玄関口として栄えた宿場町。板取宿:勝家が道を改修。民家の藁葺の屋根は甲(かぶと)造り。湯尾峠:勝家が峠を改修。松尾芭蕉や井原西鶴等の作品にも登場。木ノ芽峠:北陸文化圏と近畿文化圏を隔てる峠。
今庄宿
得法寺
得法寺
得法寺は、文明7年(1475年)に蓮如上人が吉崎から京都へ上る途中に逗留された際、蓮如上人に帰依し、浄土真宗に改宗したと伝えられる寺。元亀元年(1570年)、織田信長軍が朝倉攻めで熊川に宿泊した際に、徳川家康が宿泊し境内の松に腰掛けたという逸話も残ります。明智光秀の娘・玉(受洗名ガラシャ)の義理の母である沼田麝香の出自である、熊川城主沼田氏の供養塔と伝えられるものも残されています。
後瀬山城
後瀬山城
光秀の母とされる「お牧の方」は、「明智系図」によれば「若狭武田家 武田義統の妹」、つまり「武田信豊の娘」とされています。武田信豊の孫 武田元明は「本能寺の変」後に光秀側につき、若狭武田家は滅亡します。若狭武田家居城「後瀬山城」は石垣等の遺構が良好に残り、国指定史跡となっています。小浜市にある西福寺には光秀が身を寄せていたという言い伝えがあるほか、後瀬山の山麓には浅井三姉妹の次女「常高院(お初)」の菩提寺「常高寺」があります。近くの「空印寺」には全国に伝説が残る「八百比丘尼(やおびくに)」入定の地(洞穴)があります。
西福寺
西福寺
小浜市青井にある西福寺には、光秀が身を寄せていたという言い伝えがあります。小浜にいたことを裏付ける資料はないものの、光秀の母と縁があったとされる称念寺の末寺、西福庵と名前が似ており、探求心がくすぐられます。
石山城
石山城
石山城は、石山集落背後の山上や尾根に築かれた戦国時代の山城で、佐分利一帯を治め、若狭武田氏の家臣であった武藤氏の居城でした。織田信長による越前若狭侵攻によって武田氏家臣の多くが織田方に従いましたが、武田氏一族の武田信方と武藤氏はそれに従わず抵抗。武藤氏討伐のため明智光秀・丹羽長秀が派遣され、武藤氏は石山城から退去、城は破却されました。
明鏡洞/城山公園
明鏡洞/城山公園
「明智軍記」の中で、光秀が船乗から聞いた話として「高浜の八穴浦」という地名が出てきます。「高浜の八穴(やな)」は「八穴の奇勝」と言われる自然洞穴であり、「明鏡洞」はその中の一つです。城山城址から望む夕日は「日本の夕日百選」に選ばれています。城山公園にあった高浜城は、武田信豊(明智光秀の祖父?)の家臣 逸見昌経(へんみまさつね)が1565年頃に築城しました。逸見昌経は、光秀が信長の命を受け1581年に京都で実施した「馬揃え(軍事パレード)」に参加しています。
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