【福井駅周辺30分観光】幕末三英傑の足跡を巡る
中学高校で日本の歴史を学んでいると、福井が表舞台に登場するのは大体2回。戦国時代と幕末です。今回のお話、幕末~明治初期にもかなり表舞台に出てきます。大河ドラマでも描かれた坂本龍馬や西郷隆盛、渋沢栄一、彼らがその人生の中で関わった、福井県民にとって有名な三人について巡っていこうと思います。

宮田耕輔
福井のまちづくりをライフワークに、ギャラリーを運営し、まちあるきガイドを育成し、毎年映画を撮り、映画祭を開催し、時々超長文のブログを書いています。
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混迷の中、理性的に考えられた名君
一人目は、第十六代福井藩主・松平春嶽公。この方無くして幕末の福井を語ることはできません。御三卿の一つ、田安徳川家に生まれ、数え年11歳で福井藩主になります。
春嶽公は「幕末の四賢候」と呼ばれ、混乱の極みだった幕末において大局観で日本のことを考えていた方。国が困窮していても見て見ぬ振り(いや、見えていなかった)の将軍家、保身に走った大老・老中・家臣団、相手の命を排除することしか解決の方法を持っていなかった志士。その中で理性的に考えられた一人でした。

経済政策だけでなく、人材登用の面にも優れていました。旧態依然の放漫経営に慣れていた家臣をことごとく排し、家格などでなく才能や実力で登用する人事を行ないました。
そこで登用された人材の中にいたのが、残り二英傑です。
一人は西郷隆盛と深い交流を持ち、安静の大獄で処刑された際、西郷が深い悲しみを覚え、西郷が死ぬまで彼の手紙を所有していたという、福井の秀才・橋本左内。
もう一人は坂本龍馬と懇意にし、新政府の基本方針の原案を作り、明治政府に誘われ、初代東京府知事に就任、初めての全国共通紙幣を作り、今の銀座を作った、努力家・由利公正。
この三人、一人ずつ説明、というよりも絡み合っていたので、一つの流れの中に三人がどう関わっていたのかを説明するほうがわかりやすいかと思います。
倹約して、倹約して、倹約して
幕末の福井藩、「藩はつぶれない」という甘え、飢饉、火災、幕府からの普請、さらには将軍の息子を藩主に迎えたものだから、さらにお金を使い込み、結果、春嶽公が就任したときには90万両という借金王国に。
このお金をどう返済したのか。隗より始めよと、自身にかかる経費を1/3に抑え、家臣たちには給料を半分に、着物も贅沢せずに綿のものに、食事も一汁一菜で、大坂の商人には無利息で返済を承認させ、爪に火を灯すような取り組みをしていました。
福井の秀才、志半ばで散る
10年が過ぎ、全国にその政治手腕が轟き始めた頃、もう一人の英傑は大坂にいました。父の仕事である医学の道に進み、勉強のために緒方洪庵に師事していた橋本左内です。ちなみにこのとき16歳。その1年前に「啓発録」という人生の生き方5項目を著します。
この頃です。ペリーが下田の港にやってくるのです。医師を続けていた左内もまた国難への憂いを持ち、国のために何かしようと考えていました。その資質は春嶽公の耳にも入ってきます。だから福井のために働いてもらおうと、医師の職から藩校の明道館で教鞭を取り、次の世代を育成する役割を果たします。

その秀才が惚れ込んだのが、熊本にいた横井小楠でした。なんとか熊本藩の許可を得て福井に来たのが1858年3月。左内はこの時江戸にいて、春嶽公の命で将軍継嗣で一橋慶喜公擁立のために奔走していました。しかしこの7カ月後、左内は幕府に捕縛されてしまいます。安政の大獄の始まりです。結局二人は再度相まみえることもなく、左内は26歳の生涯を終えます。
彼の生地は今、「福井市左内町」という地名になっています。この地には彼を顕彰した銅像が立っているほか、菩提寺も建っています。福井駅から徒歩15分くらいです。
明治から始まる近代日本の基礎を作った
左内が呼んだ小楠の思想は、確実に福井の志士たちを奮起しました。その1人が由利公正です。軍備も必要なところで銃の製造工場の担当になっていた彼は、横井小楠とともに福井における殖産興業を発展させた立役者。そして長崎に商館を設置してオランダとの貿易を任され、福井藩の財政を潤していきます。さらに藩内の産業では生糸が高値で取引されるので養蚕を奨励します。これが福井の繊維王国への足掛かりになります。

当時、福井藩として挙兵して上洛する計画もあったんです。結局時期尚早ということで計画は頓挫しましたが、強硬派の一人だった由利公正は蟄居させられます。このとき、彼に会いに来たのが坂本龍馬でした。彼の経済政策の手腕を横井小楠から聞いた坂本龍馬は夜が更けるまでこれからの日本について熱く語り合ったのでした。
それから坂本龍馬は福井藩に海軍創設のためにお金を借りに来ます。よく歴史の話で言われる「5000両を借りた」話です。ただ、実際には春嶽公には会えず、借りたのは1000両だったそうです。最大で5000両までは貸すよ、という言質を取ったまでで、結果的に5000両は貸していない、というのが真相です。ちなみに「高知県立坂本龍馬記念館」に行ったとき、4000両って書いてありました。さぁ、どっち??
頑張る姿を人は見ているのです
明治時代に入り、さまざまな職を歴任した後、春嶽公は引退します。後世になり、福井城の西隣、かつてのお城の中であった場所に春嶽公を祀る福井神社が創建されます。昭和18年に創建されましたが第二次大戦で焼失します。その再建では福井大学工学部の設計により、かなりモダーンな感じになりました。
由利公正は日本初の全国流通紙幣・太政官札を発行します。もちろん紙は越前和紙です! ただ、時代が追いついておらず、失敗には終わるのですが、その失敗を糧に日本に資本主義を根付かせたのが渋沢栄一でした。多分現役時代には直接会っているとは思いませんが、しかし国を富まそうと奔走した系譜は同じなのかもしれません。
今、エキマエの近く、足羽川のほとりに銅像が立っています。この地はまさしく由利公正の生地。お城から見て川の対岸にあり、松岡藩(現在の永平寺町松岡あたり)の吸収に伴い移り住んだ人たちで、当時は下級武士の一人でした。才覚と度胸と機会を持てば身分は関係ないのです。学ぼうとする意欲があれば、人は見ているのです、ということを後世に伝えてくれています。
さて、
書いたら止まらない癖が、ここでは発揮されてしまいました…。
このブログは文字数を調整しています。大体1500文字に。
そして実はこのブログには「完全版」があります。大体6700文字です。
徳川将軍家と福井藩主の家系図が見ものです。
作ってみてなるほどと思いました
もし、興味がありましたらこちらも是非お立ち寄りを。



















