歴史に名を残した戦国の強者たちゆかりの地をご紹介
織田信長の北陸平定を支えた柴田勝家をはじめ、羽柴(豊臣)秀吉、名将・丹羽長秀や金森長近。そして、府中三人衆として知られる前田利家・佐々成政・不破光治など福井県には、歴史に名を残した戦国の強者たちゆかりの地が数多く存在します。
今回は彼らの足跡をたどる福井の戦国スポットをご紹介します。

今回ご紹介する戦国武将ゆかりの地はこちら
吉崎御坊
吉崎御坊は浄土真宗中興の祖・蓮如上人が北陸での布教の中心拠点に選んだ場所で、現在でも付近一帯は「蓮如の里」と呼称されています。
蓮如がここを本拠として精力的な布教活動を行ったことで、本願寺はのちに羽柴秀吉や柴田勝家をはじめとする織田勢力に対抗しうるほどの一大勢力となりました。
また、京都本願寺から移築した本願寺吉崎別院の念力門は秀吉が寄進したとの伝承があります。
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丸岡城
丸岡城は天正4年(1576年)に柴田勝家の甥、勝豊によって築かれました。
北庄城とともに越前の統治、また加賀の一向一揆や上杉謙信に対する軍事の拠点となりました。
天守(国指定重要文化財)は外観は二層、内部は三階の独立式望楼型天守です。石垣は”野面積み”という古い方式で、すき間が多く粗雑な印象ながら排水がよく大雨に崩れる心配がないといわれています。
※丸岡城天守は2025年12月より耐震工事を含む大規模な修理を行っております。
工事の期間:2025年12月~2027年11月(予定)
丸岡城天守の工事について詳細はこちら
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福井の史跡巡りといえば、まず思いつくのがお城!
県内に数多ある城址の中に、全国で12しかない現存天守が福井にあります。
それが坂井市にある丸岡城です。
今回は丸岡城とその周辺を散策してみました。

平泉寺白山神社
平泉寺白山神社は養老元年(717年)に泰澄大師によって開かれたと伝わり、白山信仰の越前側の拠点となりました。
平安後期には天台宗比叡山延暦寺の末寺として発展し、最盛期の戦国時代には48社、36堂、6,000の坊院が立ち並び、寺領は9万石・9万貫、8,000人もの僧兵がいたと伝えられ、当時は日本屈指の宗教勢力であったようです。
織田信長方と関係のあった平泉寺は一向一揆勢に攻められ全山が焼失しました。
現在、中心部の白山神社境内は緑の美しい苔で覆われ「苔宮」「苔寺」とも呼ばれています。
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越前大野城
越前大野城は織田信長のエリート家集団「赤母衣衆」の一人、金森長親が築城した城です。
天正4年から4年の歳月を要し完成した当時は、2層3階建ての大天守、2層2階の小天守、二の丸、三の丸があり、外堀・内堀をめぐらし、城を守っていました。
石垣は野面積みという工法で積まれており、県指定文化財になっております。
賤ヶ岳の戦いの後、秀吉に降った長親は、引き続き越前大野の統治を任されました。
後に秀吉の茶頭・津田宗及に茶のふるまいを受けたり、翌年秀吉と共に宗及を訪れた際には、秀吉自ら花を生けたと伝わっています。
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柴田神社(北庄城址)
戦国武将、柴田勝家は織田信長から49万石を与えられ、数年の歳月をかけて居城である北庄城を築いたと言われています。
越前国の中心地として一乗谷からも民家や寺院を移転。現代に繋がる城下町を作り上げました。
柴田神社は柴田勝家公を御祭神とする神社であり、江戸時代に柴田期北庄城の天守跡とされた場所に立地。境内には、柴田勝家公とお市の方、娘の三姉妹の銅像が建っています。
併設する北の庄城址資料館では、北庄城の遺物や鬼瓦、勝家の時代に造られた半石半木の奇橋「九十九橋」に使われたという石柱、九頭竜川にかけられた舟橋をつないだ鉄鎖などが保存されています。
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その中でも今回は福井駅から歩いても行ける3つの神社仏閣をご紹介します。

西光寺(柴田勝家・お市の方墓所)
西光寺は柴田勝家、お市の方の菩提寺です。
朝倉氏滅亡後、勝家が北庄に築城する際に吉田郡岡保治郎丸から現在の佐内町に移転させたと言われています。
境内には勝家、お市の方が眠る墓や、勝家の念持仏や刀、そのほか数々の遺品などが収納・展示されている柴田勝家公資料館があります。
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越前二の宮 劔神社
劔神社は1800年の歴史を有する越前国の二の宮です。
戦国武将織田信長の祖先は、劔神社の神官で、出身地の地名を取って「織田氏」を名乗ったとされます。
当時、信長は多くの神領を安堵するなど、神社の保護と住民の治安に尽くしています。
本殿は県の指定文化財に、梵鐘は国宝に、秋に奉納される太鼓「明神ばやし」は、県の無形民俗文化財にそれぞれ指定されています。
本山誠照寺
親鸞聖人ゆかりの寺で、“鯖江のご本山”として親しまれてきた誠照寺は、京都の東本願寺や西本願寺と同じく、浄土真宗十本山の一つです。
三門徒教団の誠照寺は、越前を制圧しようとする一向一揆と激しく対立しましたが、越前に再侵攻した織田方について忠節を尽くし、柴田勝家の庇護を得て安泰を誇りました。
しかし、賤ヶ岳の戦いの折りには勝家側につき、侵攻してきた秀吉軍に焼き討ちにされてしまいます。
その後、秀吉や丹羽長秀との関係を修復して安堵上を得た寺は、荒廃に屈せず復興の歩を進めました。
小丸城跡
小丸城跡は織田信長の家臣で府中三人衆のひとり、佐々成政が天正3年(1575年)に築いた平城の後で県指定史跡です。
現在も石垣と堀が残っており、越前における中世城跡の貴重な遺構となっています。
また、前田利家が、府中の一向衆門徒に対して行った一揆討伐の苛烈さを記した文字丸瓦が出土しています。
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ふく旅ライターの記事も公開中!「まちなかに、寺に、里山に。越前市で出会う戦国城址めぐり」
「お城」と聞くと、皆さんはどんな姿を思い浮かべますか?
天守のある立派なお城を想像する方も多いかもしれません、実は越前市には、まちなかやお寺、里山の風景の中に戦国時代の城址が静かに残っています。
今回は、府中城・龍門寺城・小丸城をめぐりながら、日常の景色に残る戦国の面影をたどってみました。

須波阿湏疑神社
須波阿湏疑神社の本殿は、戦国時代の朝倉氏寄進のもの。秀吉や勝家を擁する織田軍によって朝倉氏が滅んだ後の天正2年(1574年)、一向一揆により拝殿その他の諸殿を焼失しましたが、本殿は難を逃れました。
和洋・唐様・天竺様と建築様式が見事に融合した優美な社殿は、国の重要文化財に指定されています。
木ノ芽峠城跡、木ノ芽峠茶屋
天正元年(1573年)、織田信長と朝倉義景との戦い(一乗谷城)において木ノ芽峠城で戦勝した秀吉が、合戦を終えて木ノ芽峠茶屋(前川家住宅)に休憩のため立ち寄った際、当時の前川家当主が秀吉から拝領した陣中釜が現在も遺されています。
また天正11年(1583年)、秀吉が柴田勝家を滅ぼして大阪に戻る途中にふたたび木ノ芽峠茶屋を訪れた際、秀吉から拝領したと伝わる金の茶釜も現存しています。
金ヶ崎城跡
金ヶ崎城跡は敦賀湾を一望する小高い山にあります。
織田信長が越前朝倉攻めの際に浅井長政に裏切られ、決死の撤退戦を強いられた「金ヶ崎の退き口」において、窮地を救った明智光秀・豊臣秀吉の殿の地としても知られています。
現在、金ヶ崎上司の麓には金崎宮が建っています。
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北陸新幹線で敦賀へ!終着駅から徒歩30分圏内のおすすめ観光スポット&グルメ
北陸新幹線の終着地点となった「敦賀」は、「鉄道と港のまち」と言われる交通の要所として、日本海側で初めて鉄道が敷かれたまちであり、海を介して大陸とつながる玄関口です。
今回は、新幹線で初めて敦賀に降り立った方にも存分に楽しんでいただけるよう、駅から徒歩30分程度のおすすめスポットを集めました。
ぜひ、敦賀でまち歩きを楽しんでみてください!

国吉城址
国吉城は、若狭国東部の「佐柿」にあり、戦国時代は若狭国と越前国の国境を守る「境目の城」でした。
『国吉籠城記』には、元亀元年(1570年)4月に秀吉が入城したことが記されています。
また、佐柿出身の研究者が古老から聞いた話では、本丸に大きな平石があり、織田信長に従って秀吉が国吉城を訪れた折、随行した徳川家康と以後に興じたといわれています。
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ふく旅ライターの記事も公開中!「大河ドラマの舞台にもなった若狭を代表する山城「国吉城」で歴史ロマンを感じよう。」
若狭にはたくさんの山城がありますが、その中でも難攻不落の城として有名な「国吉城」は、越前国と若狭国との国境にあり若狭を守るために栗屋勝久が古城を改修して築いたとされています。

熊川宿
熊川の宿は、若狭から京都を結ぶ重要な宿場です。
秀吉による小田原討伐の前年、天正17年(1589年)には秀吉の相婿で若狭国守の浅野長吉(長政)が、交通・軍事の要衝として熊川に対し諸役免除の布告を発し、この地の発展を図りました。
熊川宿は重要伝統的建造物群保存地区に選定され、往年の繫栄を偲ぶ街並みが保存されています。
また、平成27年に熊川宿を含む鯖街道が「~御食国若狭と鯖街道~」として日本遺産に認定されました。
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熊川宿をまるっと満喫!川のせせらぎを聴きながら贅沢な時間を過ごす旅のすすめ
かつて若狭から京都を結ぶ重要な宿場だった熊川宿。
伝統と共存する人々の暮らしを根底にしながら、近年はその景観や暮らしに魅せられた人たちが古民家をリノベーションしたカフェや宿をオープンし、古くて新しい観光スポットとして再び注目が集まっています。今回は、そんな熊川宿を、歩いたりレンタサイクルを利用しながら紹介してきます!

後瀬山城跡
後瀬山城は若狭竹田氏の居城でしたが、(天正元年)1573年、織田、豊臣政権初期を支えた丹羽長秀が若狭を拝領すると、大規模な城郭の再整備が行われます。その後も豊臣家の重臣・浅野長吉、木下勝俊が城主を務めたことから、この地は日本海側の京都に最も近い外港として、極めて重要な拠点であったことが分かります。
おおい町名田庄
天正10年(1582年)、織田家当主は京歴と三島暦の正確性について土御門久脩を呼び会議を行いました。その後の文禄元年(1593年)、久脩は豊臣秀次の切腹の巻き添えのようなかたちで秀吉の怒りにふれ、尾張国に配流されます。
この後おそらく1600年頃まで名田庄地域に邸宅があったと考えられます。
(参考:大閣秀吉と陰陽道闕職 木場明志1985 )
高浜城跡(城山公園)
高浜城は逸見昌径が築城し、後に若狭国を治めた丹波長秀の下で天正9年(1581年)、溝口秀勝が高浜城主となりました。本能寺の変後、秀吉と勝家が対立する中、秀吉の命令で長秀は秀勝をはじめとする若狭衆に北国通路に近い江州海津を押さえさせています。
現在は城山公園として遊歩道などが整備されています。









































